パサージュ-90

     

 町に新しい美術館ができた。

ここはごく普通のニュータウンで、コンビニが6つ、学校、病院、ショッピングセンター、ユニクロ、サイゼリア、ツタヤ、ブックオフ、ABCマート、蕎麦屋やラーメン店、レストラン、そして文化施設はない。

2軒の大きな葬儀場が向かい合って去年できた。

ニュータウンとはいえ、できて20年近くたっている。だからそろそろ死んでいく人も出てくるのだ。でもだからといって向かい合って2軒の葬儀場が同時にできるのもどうかと思った。だが死を意識するのきっと悪いことではない。死ぬ当事者も周りの人間もきっと悪いことではないはずだ。

 

美術館は公園と街並みとの100m弱の隙間にできた。2年くらいかかっただろうか。森に走りに行く途中いつも建築中の横を通った。まさか地下に2階伸びているとは思わなかった。地下を掘っている様子は見たことがなかったからだ。

隣のクリニックは5階建てで、その胸の辺りしか高さはなく、遠くから見るとそのビルの一部のように見える。ただ横に長く、一部は建物の土台からはみで、やや蛇行して宙を伸びていく。その部分にも作品は並んでいて、それは外からも眺められる。

不思議な形の美術館。

高さのない代わりに地下に潜っている。

 

ぼくはオープン翌日の朝一番に行った。

10時。

 

さすがに開館直後の入り口に人は少ない。というか老夫婦が5組と初老の男たちが10人ほどいるだけだった。地元の人たちだろう。

入り口は狭い。通路の途中に入り口があり、チケットを販売機で買い、スタンプを押してもらいそのまま細いスロープを降りていく。細い通路が延びていてその両側に絵が並んでいる。

 

縦2m横1m、横3m縦1m、けっこう大きな絵が続く。

天井は高く、遠く真正面に小さく見える明るい窓からは森の緑が鮮やかに見えている。

少しずつ下っているこの部分がきっと土台からはみ出、宙に伸びている部分なのだ。

 

横たわり、まどろみ、微笑み、ぼんやりとし、うつむく何人もの裸の女たちの柔らかな背中や頬、ふくらはぎに包まれながら廊下を歩いていく。50m以上はある通路に人はなく、ぼくは両側の絵の放射する穏やかで刺激的な流れに身を浸そうとしていた。

 

壁から人がすっと通路に出てきた。と一瞬思った。きっと絵のすぐ近くでじっと絵を見ていて、いま絵から離れ、歩き出したのだろう。

 

ぼくの方を一瞬振り返ったのは小学5,6年の女の子だった。

一人だった。今日は木曜日で学校は普通にある。

短い髪に細いうなじがすっと伸び、細く黒いぴったりとしたジーンズに右が赤、左が青の色の違う大きなバッシュを履いている。靴ひもの色は右が緑で左が金だ。足元で渦が巻いている。

 

背中には小さな黒のバックが大きな蜘のよう張り付いている。背は高くなくでも大またで大きく腕を振って歩いていく。

 

通路にはバスケットボールを二周りほど大きくした白い球体が幾つかあったが、それが何なのか最初はわからなかった。座っていいものなのか、しかし座ると絵に近すぎたり、端っこになったり、座ると絵が見えない。デザインなんだろうと思っていた。2,30メートル先を歩いていた女の子が、体を折ってぼくの方に向かってきた。と思ったらすぐに長い足を前に投げ出した。

 

つまりその球体を1,2メートル転がし、それに座ったのだ。

なるほどそれは一人用の椅子で、好きな所に移動しそこに座れるようになっているのだ。多分そんな使い方をするのだろう。

 

 

少女は長い足を投げ出し幅1メートルの縦に伸びる細い絵を見上げていた。

 

絵にはテーブルに木彫りの楯が立てかけられ、その前にはぶどうの大きな房が置かれ、一粒一粒がくっきりと描かれ、その一粒一粒は何かの力の為、はちきれそうになり、テーブルを壊しそうな重みと、そこから飛び出していきそうな勢いとに満ちている。そしてその楯の上に秣を口にくわえた馬が悲しげな目で首だけをこちらに向けている。

 

少女は立ち上がると少しだけ馬を眺め、隣の絵に向かった。隣には普通に等身大の犬が横になりこちらを見ている。少女はひとさし指と中指を広げ、犬の両目を突き刺した。

 

少女はまた大またに歩き始め、もう10m先を歩いている。

通路の終わりには外の森が見える明るい大きな窓が広がり、左に階段がある。だがその先にまだ2,3mほど進める余地がありそこを少女は進み左に折れた。そこからも通路が続き作品が並んでいるのだ。と思い、ぼくも階段へは向かわずに先に進み左に折れた。

 

目の前に少女がいた。頭の先がぼくの額のあたりで、見上げてる黒い目がしっかりとぼくの目を捉えている。

シャンプーの匂いなのか、ふっと柔らかな香りがしぼくは思わす息を吸った。

 

少女はさっと横に体を動かしぼくを置いたまま元の通路の戻った。

ぼくはバランスを失い、少女作った空間に吸い込まれるように身を入れ足を踏み出していた。振り返ったが、少女はもういなかった。

 

そこがどこなのか最初はよくわからなかったが、そこも作品を展示する通路らしかった。しばらく透明なガラスの壁が続き、ずらりと配電盤が並んでいた。小さな青い明かりが等間隔に並んで光っている。

 

よく見るとガラスに小さく文字が浮かんでいる。

端から順番に読んでみた。

人の名前だった。つまりこの美術館を作った人々の名前が書いてあるのだ。

建築会社、内装の会社、デザイナー、設計者、電気店、家具店、レストラン、喫茶店、それらを作った人々の名前が50音順に並んでいる。約1000名に近い名前が透明なガラスに小さく丁寧に上から下へ、左から右へと並んでいるのだ。

 

名前の置くには配電盤の青い光がぼんやりと見えている。3,4メートル歩くと、ガラスが途切れ、中に入ることができた。

配電盤はまだずらりと並んでいる。

 

だがよく見るとそれは絵で、触ってみると凹凸はなく、青い光も青い絵の具だった。

5,6歩歩くとドアがあった。これも絵だと思ってドアノブに触れるとそれはひやりと手の中に収まり、ぼくはノブを回した。

 

そこは小さな部屋だった。

5m×5mほどの真四角の部屋で高さも同じだった。そして床も壁も天井もみな白で、中央に丸い小さなテーブルと、白く背もたれの長い椅子が2脚テーブルをはさんで置かれている。

 

ぼくはその椅子に腰をかけてみた。意外に座り心地はよく、ぼくはほっと一息ついてみた。その時入ってきたドアの反対側の壁が開いた。いやそこにもドアがあったのだ。

ぼくと同じくらいの背の女の人がぼくを見て驚きもせず入ってきて、目の前の椅子に座った。そして少し首を傾けた。長い髪が揺れた。

どこかで見た人だと思い、すぐにさっき見た絵の中の一人だと気づいた。

裸で横たわり、顔を少しだけこちらに向けている、その右半分の顔と目と眉と頬と鼻と耳だけが見えていた。今は服は着ている。

 

 

「こんちは。」

ぼくは言ってみた。

かなり間抜けな挨拶だったが、ほかに言葉は出なかった。

女は傾けていた顔で少しだけうなずいた。こんにちはということなのだろう。まっすぐにぼくを見る。こんなにまっすぐに見られたことがなかったので、ぼくはあわてたし、息苦しくなったし、混乱し始めていたし、でもぼくから何かを話しかけなければならない。

 

「絵の人ですよね。」

ぼくは言った。

女はまた少しだけあごを引いた。ずっとぼくを見ている。ぼくは耐え切れず視線を落とした。

斜めになった足が細く長い。

「この部屋って、休憩所ですか。」

 

やっぱり間抜けな質問だったが、ほかに言葉は出なかった。しょうがなく部屋の中を見回してみた。部屋はやはり白いさいころのようで、丸い小さなテーブルと背の高い椅子があるだけだった。

 

始まりの部屋。

えっ、ぼくは女の顔を見つめた。女の口が動いたふうには見えなかった。

だが確かに始まりの部屋と聞こえた。

 

 

女がテーブルに手を伸ばした。

髪が揺れ、体が折れ、手は細く、体が戻った。

 

そして腕をぼくの方に伸ばし、指がさらに伸ばされた。

2本の指の間に折られた白い紙が挟まれ、ぼくはそれを取った。

 

開いてみたがそこには何も書かれてはいず、白い小さな空間が浮かんでいる。

ふっと空気が揺れ、顔を上げると女が立ち上がり、薄いブラウスが身体の線に沿って揺れ、ドアの向こうに消え、また白い壁が残った。

 

ぼくは入ってきたドアから外へでた。薄暗い配電盤の絵と透明なガラスの通路。ぼくは奥へは行かずに元に戻った。

さっと外の明かりが目を覆いぼくは目を細めた。

ずっと歩いて来た通路が延び、その中にはさっきの女が裸で横たわり顔だけこちらを向けている。

 

ぼくは通路を右に折れた。ここはまだ地下2階まであるのだ。

緩やかなスロープが降っている。

あの少女はどこまで行ったのだろう。

 

大またでさっさと歩いて、もう外に出ているかもしれない。

そして午後から平気な顔をして学校に行くのだ。

きっとノートに気に入った絵を書くのだ。

もしかしたら気に入った絵などなく、何回も何回もそっと大きなため息をつくのだ。

 

スロープが終わると大きな部屋が広がった。

天井がいきなり高く広がっている。

 

幾本もの鉄骨が走り鉄のトロッコがじっと蹲り錆びたキリンのクレーンが並ぶ工場、陸に上がった朽ちた舟、しみが浮き上がり白い脱脂綿が鼻に詰められた死体、嵐に沈む村。食い散らかされた真っ赤なスイカ。

 

広い部屋のずっと奥に小さなぼんやりとした光が見える。森の絵だ。と思った。

その森の中央に立つ2本の杉の木に斜めに光が差している。

光の中に木が見える。

たぶんきっとそんな絵だ。きっとそんな絵だ。

 

                                    2010.11.16.