パサージュ−82

ベランダに昨日の夜洗って干したシャツが風に揺れている。風が不規則なのか右に左に細かく大きく揺れ続けている。不機嫌な誰かの見えない手がシャツをもてあそんでいる。

 

今日も曇っている。日が差さないとそれだけで気が滅入る。いや日が差さなくても最近は気が滅入るのだ。

テレビの音が大きすぎる。床がざらざらしている。冷蔵庫の音が高い。なかなか湯が沸かない。朝起きると首が痛い。蚊に刺される。字の変換が悪い。電話がつながらない。耳鳴りがする。のどが痛い。痰が絡む。

 

いくらでもあるのだ。何もかもが気になる。

気がつくと呼吸が浅い。深呼吸をすると胸が痛む。

胸が詰まる。

 

いっしょに洗って部屋の中につるしてあるマラソン用の靴が、ゆっくりと回っている。風があるわけでもないのにゆっくりと回り1周すると逆に回っていく。

それをさっきからずっと繰り返しているのだ。

1時間をもう越えている。

窓はきっちり閉まっている。

 

テレビの画面には最後に映っていた画像がうっすらと残っている。部屋に転がっているオレンジのバランスボールがその画面に滲んでいる。画面に残っているのは最近売れ出してきたお笑い芸人の顔だ。泣き出しそうな顔だ。そんな場面があったどうかを思い出そうとする。

頭が痛い。首が痛い。胸が詰まる。

 

もうすぐ昼だ。腹も減ってきている。気が滅入っても腹はすく。腹がきゅうっと熱くなる。小さく小さく焼け爛れていく。ペロンと爛れていく。

 

人参や玉ねぎや長ネギやピーマンが青いプラスティックのかごの中で少しずつ回転している。それは吊るされているシューズと連動している可能性があるのだ。

もしかしたら外のシャツを動かしている奴が関係しているのかもしれない。

 

僕は決しておかしくなっているわけではない。

いろんな音が耳の遠くを右から左へと掠め去っていくことはいくが、正常だ。

靴も野菜も回っていないし部屋の中は静かだ。

 

息を止めてみる。

苦しくても我慢する。

我慢していると胸がロックされて、息が戻らない。

カンとはずれて、息が飛び出す。

床に倒れ込む.

 

1秒ごとに動いていく秒針の尖った先を少しずつ喉に刺し込んでいく。

赤い点がぽつぽつと浮き出てくる。

 

昼飯に何を食うのか。

 

 

 

時計の針の回る音が聞こえない。

あまりに勢いよく回り過ぎ、そのたびごとに一瞬元に戻りながら、しなりながら、先へ先へと進む針の音は、だから相当大きいはずなのだが、聞こえない。

 

冷蔵庫の音に紛れ込んでしまっている。

僕の息の音に紛れ込んでしまっている。

息を止める。

耳を澄ましてみる。

遠くを電車が走っている。

電車に乗っているから時計の音が聞こえない。

 

電車には誰もいない。

海の中を走っていく。

君はいつ来るのか。

 

 

秒針は勢いよく回っている。しなり、引きちぎれそうになりながら、回っている。

僕はその音を両腕でそっと、そっと抱きしめようとする。

僕の両腕は痺れ、重く、震え始める。

 

 

2009.5.25