パサージュ−8

 私が虫になりこのビルの厨房の片隅に暮らすようになってから、どれぐらい経つのかわからない。2週間のようでもあるし、2年のようでもあるし、20年が経っているようでもある。

人間が感じる感覚と虫の感じるそれとが入り混じっている私には、正確な時の感覚は、生涯得られないものなのかもしれない。

 人間であった時の記憶ははっきりしている。私は男で46歳まで人間で暮らしていた。独身で東京に住み人付き合いが下手で、友人も恋人もいなかった。会社では25年勤めたが、別にいなくてもよく、社内の雑用係だった。冗談の対象にもならず、いつも人から好かれたいと思っている割には、思っていることを口にすることができず、いつも静かに笑っているばかりで、何か人のためになる事をしたいと思った時も、できることは掃除を丁寧にしたり、ゴミをきちんと捨てたり、人がやり残したりし忘れたことをそっとしておいたりが精一杯で、別にたいしたこともできず、有難がられたりすることもなく、いてもいなくてもいい人間だった。

 

 クーラーの音がここではやけに大きく、耳がおかしくなり、その音で体が振動し、気を抜いていると床の傾斜に沿って排水溝へとずり落ちていき、それだけは気をつけていなくてはならない。

 食物は毎日大量に出、困る事はない。虫になった当初、私は自分が戸惑うかとも思ったが、そんなこともなく、ポテトや野菜のクズを食べた。

この片隅からは夜も朝もわからないが、巨大なゴミが持ち運ばれ、しばらく置かれまた運ばれていく繰り返しで、11日の経過を考えている。

 

 両親と妹がいたが、何も息子らしいことはできず、兄らしいこともしなかった。

人間が普通に普通の生活の中でできることが私には気恥ずかしくてできず、それをみんなが耐えながらしているのに違いないと思いながらも、11つタイミングをずらし、何も言えず何もできず、46年が過ぎた。

 

 以前この部屋全体に害虫駆除の液が撒かれ、死にそうになったことがあった。1度は仰向けになり幾本もの短い足を小刻みに動かしつづけたこともあったが、こらえ、また体を起こし、薄暗い壁に体を寄せた時には我ながらしぶといものだと、虫の顔で苦笑いをした。

 

 私には羽のようなものがあるが、固く開くことができない。

壁を這い上り、天井近くまで上ると、そこから飛び降りてみる。

壁に激突する前に羽を開こうと身もだえするが、コンと音を立てて、仰向けにひっくり返る。

もう一度壁を這い上り、飛び降りる。足の何本かが折れているが、また壁を這い上っていく。