パサージュ−77

 

急に暖かくなったり暑くなると、必ず風呂場に小さな虫が発生する。

小さな虫だ。

正三角形をしている。羽が横に開いているのだ。

一晩で5,6匹。

午前中10`ほど走ったあとシャワーを浴びるのだが、そのとき風呂場の壁にぽつぽつととまっているのを見つける.シャワーのお湯を向けるとあっさりと落ちていく。そしてそのまま流れていき、排水溝に消えていく。たまにふっと宙を飛び逃げ去るのもいるが、シャワーの水を向け追いかけると、23秒で水にまみれ、墜落し、流れていく。

 

別に迷惑をかけるというわけでもなく、むしろあっけなく死んでいく可哀想な虫という印象のほうが強い。だが、消えていなくなるということはなく、気温のちょっとした変化がある時には必ず彼らは現れた。そしてあっけなく消えていった。

 

虫たちは決して風呂場から外には出ない。じっと風呂場の壁に止まっている。そして僕の向けるシャワーの水で死んでいく。それでも必ずまたやってくる。

僕は時々彼らがある日突然大量に発生し、僕のシャワー攻撃にもひるまず、次々と発生し続け、僕を攻撃してくるのではないかと危惧したが、そんな事はなく,虫たちは無力に水に押し流されていった。

 

今日もだ。

昨日の天気予報は今日は一気に真夏日になると言っていた。

もしかしたら記録に残る最高気温を達成するかもしれないとも言っていた。

だから今日は壁にいつもより多くの虫たちが止まっているに違いない、そう思っていた。

 

僕は半ば楽しみに、半ば不気味な思いを胸に、しかしわざと風呂場は見ないで、とりあえず午前中のトレーニングに出かけた。

 

帰って身構えながら風呂場に入った。

ドキドキしながら入ったが、別に壁が虫たちで真っ黒になっていたわけでも、風呂場を虫たちがぶんぶん音たてながら飛び交っていたわけでもなかった。

ただいつもよりやや多くの虫たちが壁に止まっていただけだった。

 

僕はがっかりしながら、虫たちにもっとしっかりしろと心の中でつぶやきながら、そして何でそんな思いを持つのかを考え、きっとあんな無力な虫でも、にもかかわらず死に絶えることなく生まれてくるのなら、もっとパワフルに振舞ってほしいと願っている自分自身がいるのだと思い、それはきっと無力でただ生き延びているだけの自分に対する苛立ちが虫たちに反映しているのだろうと思ったりし、ならばいっそのこと大量発生した虫たちに襲われ、体中虫たちで真っ黒にした自分の死体を見たいとも思う自分があることに改めて気付き、情けない思いをしたのだった。

 

僕はいつものようにシャワーを虫たちに向けた。

壁に止まる虫たちは、いつも通りに落ちては行かなかった。

妙にへばりついていた。

いやへばりついているわけはなかった。

僕は10cmほどまで近くから勢いよくシャワーを当てた。

だが虫は落ちなかった。

 

僕は目を細めた。

いつも見る正三角形の小さな虫だ。

 

虫は壁にくっきりとその姿を残している。

僕は爪を立てた。

こすってみた。

だが虫はその姿を壁にとどめている。

爪先に虫の体を感じることができる。

小さな突起だ。

だがどんなに爪を立ててもそれをこそぎ落とすことはできない。

虫はくっきりとその姿を壁に残しているのだ。

僕は壁を見回した。

壁のあちこちに壁の装飾のように黒い虫たちが今まで気がつかなかった羽の1mmの10分の1ほどの何本かの線を浮かび上がらせながら、整然と並んでいる。

僕はもう一度爪をたてた.

ブラシも当ててみた。

洗剤をかけ、ブラシでこすってみた。

だが虫たちはますます鮮やかに浮かび上がっている。

 

きっとこの虫たちはこれから何年も何十年も、いや何百年、何千年とここにとどまるに違いないのだ。

風呂場の壁がなくなっても、この部屋がなくなっても、このマンションがなくなっても、この土地が侵食され、海の底に沈み、赤い流れの渦にどこまでも流され、何万回と同じ流れを流れていっても、その間虫たちは誰にも知られることなく、黒々と、くっきりと、鮮やかに、その姿をとどめていくのだろう。

 

僕はもう一度爪を立てる。

 

2006.5.3.