パサージュ−72 去年の夏,ぼくは死んだ。 そしていわゆる成仏できないまま,今も意識だけでこの世を浮遊している。 たしか青い空と久々に見る大きな入道雲が嬉しい夏の日だった。 わくわくしたまま自分でもよくわからなず,やって来るトラックに正面からいきなり突っ込んでいったのだ。 真後ろに3,40m弾き飛ばされ,そのあとひき潰された。 意識ががくがくと揺れ,弾き出され,拡散した後,急速に小さく収縮し,そのあと困惑顔の運転手がぐちゃぐちゃになったぼくを見下ろしているのを見ていた。 この世でもない,あの世でもない,中途半端な場所。 だが考えてみれば,生きている時も同じようなものだった。 生きているのか死んでいるのかわからない,いるのかいないのかわからない。 そうだ,変わりはない。 それに気付いた時,ぼくは顔が赤くなるのを感じた。もちろん顔などないのだが,こんなになってしまっても顔を赤らめてしまうと感じる自分自身になぜか納得がいってしまった。 こんな事では生きてはいけない。 そして死んであの世へ行くほどの価値もない。 情ない話だと思った。 そう思った時,駅の近くのバスのロータリーのベンチの上5,6mの所で,涙が溢れ出て,大声で泣きだしてしまった。 だが声は出せないし,涙も出せない。 誰も気付かないし,雨が斜めに降り始め,星が流れ,夜が明け,人々が横断歩道をすれ違い,子供たちは塾に急ぎ,蝶は空に吸い上げられ,恋人は手をつなぎ明日のことを話し,バスは次々とやってきてサラリーマンは駅に向かい,猫は塀の上で足を止め,子犬の声がすれ違う車の窓からこぼれ落ちる。 そして生きても死んでもただぼくは人に知られずこうして浮いているだけなのだ。 移動はできる。 瞬間移動もできる。 だからどこへでも行った。 ニューヨークも,カムチャッカも,ローマも,メキシコにも行った。 朝のリレーを覚えていたのだ。 だがぼくには何もリレーできない。 時間だってだいぶ経った。 70年が過ぎている。 みんな死んだ。 それはよいことだった。 親も兄弟も,数少ない友だちも,密かに好きだったあの子も,彼らが生きている間にはよくそばに行った。 といって何もできない。 生きている時に言えなかったことは,死んでしまっても言えないことだった。 当たり前だ。 よく彼らのそばで一日中丸まって犬のように眠った。いや,時には一月も二月もそばにいた。 ただそれだけだ。 みんな老いていった。 おばあちゃんになったあの子を見るのは不思議な感じだった.ぼくの年は止まっている.静かに息を引き取った. みんな次々と死んでいった。 そばで浮いていた。 もう知っている人は誰もいない。 だからその分,心は今落ち着ける。 落ち着けるのだ。 それからは街も山も空も木も,人々も変わっていった。 ぼくだけが変わらず浮いている。 ある日どこかの山奥の背の高い木の一番上の枝に腰かけていた。 風が心地良かった。実際心地良いのだ。 風が止まった。だが目の前のこがねむしほどの小さな葉が揺れた。 風がまた吹いた。 また止まった。 心地良い。 またその葉だけが小さく揺れた。 ぼくは一瞬その葉の揺れがぼくの意識と関係しているのではないかと思い,小さく動けと思った。葉は,小さく揺れた。 外界へ力を及ぼすことができるのは,えらくうれしいことだった。 ぼくと世界とが繋がっている。 そんな感じだ。 これまで生まれてきて,そして死んで,自分が自分以外のものと関係を持っていると感じたことはなかった。いつも外にあるものは外にあった。自分でさえ外にあった。そして内側には何もなかった。生きていても死んでいてもだ。 情けない話だった。 それが今ほんのわずかだが外と繋がれる。 ぼくは念じた。 だが小さな葉は今度はぴくりともしない。 意識が強すぎるのだ。構えてしまった時,邪念が入る。 自然の心の流れの中であれば,そのままに意識は向かう。 だが動かそう思った時に流れは遮断される。 きっとそんな所だ。 今この場に没入する。 その中で葉の動いている様子をイメージする。 いや,描いたあと没入する。 だが没入するとは忘れることだ。 忘れてしまっては,描けない。 きっとそんな所が難しさの中心なのだろう。 覚えておいて忘れる。 だが時間はあった。 いやそもそもぼくには時間など存在しないのだから,いくらでも練習はできる。だいたいやることは何もないのだから,これはいい暇つぶしになった。 100年か200年が過ぎた. 時間の感覚も失せた. ぼくはトレーニングの結果,細い小枝ぐらいなら揺らすことができるようになっていた. コツは瞬間移動だ. 対象の向こう側に移動する.すり抜けていく. 体はないのだから実際に触れるわけではない.ただ意識が風になるのだ.意識が風になるような気になるのだ. 結果として小枝は揺れている. 動かしたという実感をもつことができる. できるのだ. 馬鹿馬鹿しいほど小さいが,それはとてもうれしいことだった.とても. 春.しかしここではまだ寒さが厳しい. 山の中だ. この辺りで一番高い木のこずえに座るような形で,周りを見回してみる. ぐるりと山だ.山並みがどこまでも続いていきやがて霧の中に消えていく. ぼくは木に沿い降りていく. 枝には緑の葉が茂っている. 細く伸びる枝を1cmほどの虫が細かく足を動かしながら歩いているのが見えた.枝の先に向かって急いでいる.まるでそこに何か大切な約束でもあるかのようだ. 茶色の小さな鳥が,ぱさっと枝に降りた.ちょんちょんと跳ね,虫を追う. 鳥のくちばしは頭の倍以上の長さで,この鳥の餌取りの腕前はかなりのものだった.チョンと頭を傾け長いくちばしの先で虫や小魚を突付き,動きが止まった瞬間くわえ上げのどに落とす.その間,1秒もない. 鳥が,狙った. ぼくは虫の真後ろから向こう側に瞬間移動した.虫は前にいきなり押出され,その分鳥のくちばしを避けることができた. すぐさま鳥はくちばしを動かした. 同じようにぼくは虫を押した. またくちばしは枝をコンと叩いた.鳥が少し首を傾げたように見えた. 今度は2,3度と続けてくちばしを虫に向けた. ぼくも連続して虫の中を瞬間移動した. かなり疲れる. このまま攻撃が続けばやられてしまう.と思った時鳥はばさっと音を立てて舞い上がった. ぼくはほっとした. 見ると虫は枝の先からひょいと消えた.そこに小さな穴があったのだ.そこへと頭から突っ込んでいった.短く細くとげのような足が1本,最後に見えた. 見上げるとさっきの鳥が細かく羽を震わせ2,3秒宙にとどまったあと,すいっと小さなかたまりになり消えていった. 青い空が残った. ぼくは何かそんなことでここでの暮らしを送っていこうと思った. 2004.12.15 |