パサージュ−70

 

走っている.

いつものコース.

マラソンのトレーニングだ.

 

10年かけてサブ3をと練習に励んできたが,結局一昨年の3時間2分がベストで10年が終わった.

50歳を前にした今年,もうやめようと考えたが,もう一花と4月からワンランク上のトレーニングメニューを考え,走り出した.

筋トレ,持久走,ペース走,インターバル,ファルトレク,とバラエティを富ませた分,そのトレーニングにまだ体が慣れていない.

体力は衰えるばかりなのに,トレーニングは厳しくなったので,毎日がきつい.

 

しかしそれはしょうがない.

自己ベストを出すためには強度は上げなければならない.

ほかに趣味もないし,独り者だし,しつこい性格なので,今日も朝から雨なのだが,走っているのだ.

 

この辺りにもまた新しく家が建ち始めている.

既にこのニュータウンも10年を経ているのだが,まだ奥にはすぽっとかなり大きな空き地が広がっていて,そこではこれまで柵を越えて子供たちが幾組みも野球をしていたり,サッカ−をしていたり,穴を掘ったり,追いかけっこをしたり,虫を探したりと,それはそれでいい感じの空き地だったのだ.

それが半年前からこの空き地に一気に家が建ち始めた.

それぞれがかなり大きな敷地の家だ.

全体の感じはどれも似ているが,屋根の形,窓の大きさや形,庭やガレージの配置,玄関のデザイン,どれもが違っていて,けっこう立派な家が立ち並び始めている.

 

子供たちは見えなくなった.

この一番奥の区画をぐるりと折り返し,また駅へと大通りを戻っていく.

ここからはアップダウンが緩やかに続き,その途中に小学校,中学校,幼稚園,ショッピングセンター,3つのコンビニと,リサイイクルショップ,レストランと続き,その間にズラリと家並みが続く.

ぼくはこのニュータウンの中心となる大通りを走っている.

 

ただ実は一つ問題があるのだ.

ぼくは走っているとさっき言ったが,いつから走っているのかがはっきりしない.

朝から走っているのだが,いつ家を出たのかがはっきりしない.

だがそれはきっと寝ぼけていたからで,家に帰ってしまえばそんな事はどうでもいい事になるのだろう.

とりあえず,駅に向かい線路を越えて自分の家に帰ることだ.

朝食も昼食もとっていない.

小さなパンとチーズ1枚を口にして出てくる.

だが時々線路の向こうの帰り道が思い出せなくなることがある.

今も実はそうだ.

線路を越えたあとどう道を行けばいいのか思い出せない.

どうも自分の家が思い出せないのだ.

だが時々そんな事はあったような気がする.

時々あったが,だからといって問題になった事はない.

なぜなら今日だってこうして走りに出ているのだから,ちゃんと家には帰ったのだ.帰ったからこうやって出てこられた.論理的だ.間違いない.

ちょっと寝ぼけている.

それだけだ.

 

いい感じで走っている.

1kmを4分で走る.

1kmを4分で走るとフルマラソンは2時間48分47秒だ.

これを昔は狙っていたが,結局`4分でフルは走れなかった.

そこでこの3年ほどは`4分15秒に落とした.これだと2時間59分20秒.これでもサブ3は達成できる.だが結局ベストは一昨年の3時間2分.届かなかった.

だが10km,20kmの練習では`4分を守る.でないと練習にならない.

20kmぐらいは`4分で通して走らなければ練習じゃない.そう思っている.

ここら辺は根性が入っているところだと,我ながら誉めてやりたい.

 

 

それにしてもあの新築の家が立ち並ぶ区画も,実は解せないのだ.

どうも,全体の家の配置が今ひとつわからない.

走っている道路の右側に並んでいた建築途中の10棟ほどの家が,時々気がつくと道路の左側に移動している.

そんなわけはないのだから,ただぼくがいつもより入る道を一本右側にまちがっただけという事なのだが,そんな時,街の奥まで行って折り返した時,今までずっと沿って走っていた家並みがはるか遠くに行ってしまっているのだ.

家並みが消える.

 

はるか遠くに見える山並みのように,静かに家々が空の下に小さく低く並んでいる.

そしてぼくの目の前には広々とした野原が広がっている.

それは半年前,子供たちが遊んでいた空き地のような感じもするが,そこには誰もいない.

黒く乾燥しひび割れた地面がごろんと横たわっているだけだ.

 

よく似た家並ときっちりと分けられた幾筋もの道路,作りかけの家々,それがそんな錯覚を生む.

それは単なる錯覚だ.

単なる錯覚だと思う。

 

ぼくは時計を見る.

午後1時だ.

11時前に帰る予定だった.

10時に出て`4分ペースで走っているのだから,これはおかしい.

時計が狂っているのだろう.

10時に出たのはテレビの10時のニュースの開始を見てからだから,確かだ.

だがそういえばさっき小学校の前を通った時,校舎の時計は12時半を指していた.子供たちがグランドで大声を上げて走り回っていたのだ.

いい声だった.

どの子もみんな目をまん丸にして走り回っていた.

であればこの時計は合っている.

であればぼくは知らぬ間に2時間よけいに走っていることになる.

2時間であればこのニュータウンを2周走れる.

ぼくは知らぬ間にここを3周走ったのだろうか.

 

 

どうも最近わからない事が増えている.

時間の感覚と位置感覚が狂っている.

いや,気のせいだ.

もっとよく落ち着いて考えるべきだ.

腕時計は1時を過ぎている.

出たのはやはり10時だ.

家に時計は7つある.いつも全て寝る前に合わせてある.朝起きた時少しでも違っていると気分が悪いからだ.

 

そしてそれが全部10時を指していた.

「10時のニュースです.」

そうアナウンサーが言うのを聞いて最初のニュースが台風のニュースだったので,すぐに家を出たのだ.

これから雨が降り出しそうだとアナウンサーが言い出しそうだったからだ.

 

いやまず確かめるべきだ.

ぼくはコンビニに入った.

正面の時計を見る.

確かに1時を過ぎている.

せっかくだからアイスクリームを買う事にする.

いい年をして,汗だらけのTシャツと短パンでアイスクリームを買うのも恥ずかしかったが,店員は若くて可愛い女の子で,なんか気持ちがばらけて落ちていきそうで怖く,それがマニュアルに書いてある挨拶であれ,その挨拶が聞きたく,アイスクリームを買う事にしたのだ.

 

ぼくはコンビニの前の駐車場で屈伸運動をしながらアイスクリームを舐めた.

ぽたぽたとアイスクリームが落ち,ゆっくりとアスファルトのざらざらとした表面の小さな穴に染み込んでいく.

大きな蟻が駆けてくる.

 

まぁいい,とにかく帰ろう.

帰ってシャワーを浴びてすっきりしよう.

そして昼飯を食って,そうだ昼飯だ.

腹がへった.

出る前に炊飯器はセットしてある.

玄米に黒ごまと,煮干を砕いて粉末にしたものを入れてある.

出来上がりに納豆と卵を入れるのだ.真っ黒でねとねとして見栄えは悪いが栄養はあるだろう.

そいつを食って,あとは仕事だ.

 

仕事は塾だ.

気は良く優しく素直で真っ直ぐで,それで学校では損したり,いじめられたりし,そしてそのせいもあり学校の授業は理解できない子の多い,そんな塾だ.

とにかく帰ろう.帰れば全部すっきりする.

飯食って,仕事だ.

 

駅に近づいた.構内に入る.

右側に6台の自動改札口.

切符売り場を過ぎ,左に降りる階段を降りる.

あと5,6段.

ブレーキがかかる.

降りた後どう行けばいい.右か左か.

通りは見える.

広い通りが真っ直ぐ伸び車の量は多く,人の後ろ姿も幾つも見える.すぐ先に交差点がある.夏の真昼の眩しく白い世界だ.

ぼくは降りてきたのと同じ調子で回れ右をして階段を上る.

やはりわからないのだ.

この先どう行けば自分の家に行きつけるのかが思い浮かばない.

 

しかしこれはおかしな話だ.

いや,それ以上にまともな話じゃない.

これでは僕はおかしな男になってしまう.

精神に何か障害のある,まともな人間ではない,危ないおじさんになってしまう.

それはありえないことだ.

だろ?

それともありえるのか.

 

ぼくはまたニュータウンコースへと戻る.

何かがおかしい.

ぼくがおかしいのか,それとも周りがおかしいのか.

しかし映画や小説ではない.

確率としてはぼくの頭の中に何か異変が起きていると考えた方がいい.

謙虚にそう考えたほうがいいだろう.

では一体何が起きているのだ.

記憶が途切れる病気にでもなっているのか.

そして途切れるごとに,その記憶がなくなっていく.

その場その場を凌いでいるのだろうが,その記憶はない.

考えられる事.

可能性としてだ.

 

あるいはこれはどうだ.

今起こっていること全部が全て夢だということ.

つまり走っていて自動車にでもぶつかって,病院に運ばれ,今昏睡状態にある.そしてそこで見ている夢がこれだ.

ぼくは今,1人病室で何本もの管を体に刺され,横には心臓の動きを示す装置が置かれている.よくドラマで見るやつだ.

ピッピッと音を立て,その都度心臓の鼓動が尖った線で示される.

ぼくはそこで昏睡状態のままもう3日間,あるいは4年,もしかしたら30年,寝続けている.

 

ありえる話だ.

いや,ありえる話だろうか.

 

わからん.

どうもわからん.

少しずつ少しずつ狂ってきて,それが今大きくはっきりとした狂いとして出てきた.

そんな事か.

 

だがこれが夢だということはありえる.

夢なら突然場所や時間がとぶことはありえる.

走っている時に事故に遭う可能性も高いし,そのせいで走っている夢に固着する事もありえるだろう.

おそらくそうだ.

これは夢なのだ.

 

ぼくは今どこかの病室に何本ものチューブを刺され,白い包帯に巻かれて,静かに寝息を立てているのだ.

 

起きなければならない.

このままではこのニュータウンコースを一生走り続けることになる.

目を覚まさなくてはならない.

だがどうやって?

どうやれば目が覚める.

 

同じショックを与える.

これもよくあるやつだ.

記憶を失った男が,失った時と同じ状況に置かれた時,そのショックで記憶を取り戻す.実際そうなのだろう.

であればぼくが元に戻るにはどうすればいい.

 

おそらく自動車事故だったのだ.

そうに違いない.

であれば突っ込むしかないのだろう.

走ってくるトラックにでも正面から突っ込んでいく.

夢なのだから問題はない.

だが意識としてそのショックは大きい.

どでかいトラックに突っ込んでいくのだ.

恐ろしいにちがいない.

そしてその恐怖がぼくを起こしてくれる.

ぼくは何日か振りに,あるいは何年か振りにゆっくりと目を開くのだ.

 

そうすれば訳の分からない事で頭を混乱させることはなくなる.

いいかげんうんざりしているのだ.

いつも同じことの繰り返し.

そうだ,実はもう同じコースを何回も回っている.いつも階段のあと5,6段という所で降りられず舞い戻り,また作りかけの家の横を通り過ぎる.

いつまで経っても家は完成せず,突然消え,黒く干からびた原っぱが広がるのだ.そしてまた骨組みの家が並ぶ.

 

マニュアルの挨拶は聞き飽きていたし,ただ唯一,小学校の子供たちの声と丸く大きな目だけは心が和んだ.でなければ走ることもできなかった.走ることができなければもっと悪くどうかなっていたはずだ.

さぁ,そうとわかればさっさと突っ込もう.

突っ込んで目を覚まそう.

 

 

交差点をゆっくりとトレーラーが曲がってくる.

後ろには真っ赤とブルーの自動車が2台ずつ計4台載っている.

かなり長い車体だ.

真っ直ぐになった.

ギアが入れ替えられこちらへ向かって加速してくる.

ちょうどいい.

ぼくは車道の端に出る.

さらにギアが上がった.

意外とエンジンの音は軽快だ.

人の良さそうな40歳前後のオヤジの顔が見える.

人を轢いたことをいつまでも気に病むタイプかもしれない.いやこれは夢だ.彼も実際にはいない.ぼくの夢の中の人物だ.気にすることはないのだ.

 

スピードが乗ってくる.

ぼくはすいっと車道の真中に出る.

オヤジの口が大きく開く.目がまん丸だ.

ぼくはダッシュする.

あっという間に車体が大きくなる.

のしかかってくる.

風の音か.

あっという間だ.

あっという間だ.

あっという間だ.

        

                   2004.5.23