パサージュ-69

 

隣の家は庭が広く,背の高い松の木が幾本も伸びている.

少年は隣の家と自分の家との境の,コンクリートの塀を渡るのが好きだった.

テレビで人気の忍者のように狭い塀の上を身を屈めてさっさっさっと駆けて行きたいと思っていたのだ.

塀はゆっくりとカーブしながら30mほど伸びている.少年にはかなりの距離だ.

一気に駆けていくことはまだできていない. 塀渡りを始めて3週間くらいになるが,今日も恐る恐るという感じでしか端まで行き着けない.

 

実際それにはかなりの勇気がいった.

塀は2m近くの高さがあったし,少年の背はその半分ちょっとだった.

これまで少年は3度落ちている.一度は足を踏み外し塀に股間を打ちつけた.金玉を打ったのは初めてで,息が止まり,全身が熱いような冷たいような妙な感じになり,重い痛みが下半身から腰背中とぺったりを重く貼りつき,一体自分はどうなってしまうのかと少年は心底心配になったものだった.

2度目はバランスを崩し,何とか持ちこたえようとふらふらし,そのままゆっくりと自分の家の方へと倒れていった.隣の家には落ちたくなかった.

 

隣の家の人はほとんど知らなかったし,ほんのたまに見るおじいさんはいつも歯を食いしばったようなおっかない顔で松の木の向こうの,青い小さな花の咲く,季節はずれの蝶の舞う花壇を,じっとにらみつけているだけだったからだ.

そんな時少年は塀のそばに伸びる木の幹の陰に体を寄せ,老人がいなくなるのをじっと待った.自分は今木に変身しているのだと思った.

 

落ちた時は風の音がすごかったことを覚えている.

ずいぶん長い間空を落ちていたと覚えている.

このまま地獄に落ちていくのだと少年は思い,体が一瞬で冷たくなった.

だがその直後全身にものすごい重みが加わり,体がぐるんと回った.

足首が火のついたように痛み始め,それから2週間学校へはギブスを着けて通うことになった.

母親からはえらく叱られたが,自分は今修行の身だと思い,ギブスの外れた日からまた塀に上り始めた.もちろん母親が買い物に出かけている間にだ.

それに塀に上らない日にも外では地面に塀の幅の線を引き,家の中では廊下の板に合わせ,そこから外れないよう歩く稽古をした.

 

修行なのだ.

少年はそう思った.

そんな時少年の頭の中にはあるシーンがきまって浮かんだ.

 

それは忍者の頭領のまだ小さい子供が修行のためと,音立てる滝の横,父親に頭の上に持ち上げられ,その滝のしぶきを浴びながら,天の陽の力を授かるという行を受けている場面だった.

子供は父親の頭の上でもがき苦しみ,父親は目を見開き,滝の音にも負けない大声で何か呪文を唱えながら子供を高く持ち上げ続ける.

子供は体を左右に何度も揺らすがじっと歯を食いしばって耐えている.

すごい,少年は思った.これが修行なんだと少年は思った.

それと比べたら自分の足の痛みなどたいしたことはない.

塀を一気に端から端まで走る事ぐらいできなくては,立派な忍者にはなれない.

少年はみんなに知られないうちに立派な忍者になり,みんなの知らないうちに悪と戦い,悪を倒すつもりでいた.

 

 

 

その日も少年は塀を渡っていた.

もうかなりのものだった.

忍者のように膝を曲げ,やや前かがみになり,走り抜ける.ささっと走り抜ける.

一番難しいところは,塀の中ごろで通せんぼをするように伸びてくる松の木の枝だった.

ちょうど少年の目の高さの位置で15cmほどの太さの枝が進路をふさいでいる.ここですっと体を沈ませ速度を落とさなければならない.以前落ちたのはここでだった.

今はここもさほど速度を落とさなくてもくぐり抜けられる.

今はここをどれだけ速くくぐりぬけ端まで駆け抜けられるかが修行のポイントだ,と少年は思っていた.

まだ遅い.

少年は思った.

同じスピードで体をすっと落とすだけで,駆け抜ける.

それができればこの修行は完成する.

 

 

夕方の4時.

母親はついさっき買い物に出かけた.

太陽はまだ熱く輝いている.

入道雲もまだ大きく形を変えながら空に伸びている.

少年は塀の端に腰かけ,しばらく雲の形を追っていた.

雲が空の奥から次々と湧き出てくるのだ.

だめだ.雲なんか見ているときではない.修行をおろそかにしてはいけない.

少年は思い直し視線を落とし,塀の一番端を見つめた.

せみの声が響く.

 

呼吸を整える.

少年は塀の上に立った.

膝を少し曲げる.

すっと右足を出した.

だらりと下ろした両腕を少し曲げバランスをとる.

二歩,三歩と進める.

速さを一定にする.

風を切る音がする.

落ちた時の音とは違う.軽く心地よい音だ.風が後ろに流れていく.

 

いい.このままだ.このままいける.いくぞ.

視界の端に通せんぼの枝が見え始める.

直前で体を静める.

直前でだ.

 

その時視界の右端に何かがくるりと回った.

少年は思わず立ち止まる.両手を広げ揺れを防いだ.

おかしい.それまでに見たことのないものだった.

顔を向けた.

今まで見たことがない光景があった.

そこが今までなんだったのかを少年は思い出そうとした.

雨戸だ.そこは雨戸でいつも閉まっていた.

それが今開いている.

そこに大きな畳の部屋が奥へと広がっていた.

奥は暗く見えない.

だが部屋の手前には大きな黒々とした飯台が置かれ,それは外の光にくっきりと浮かび上がり,そしてその飯台を前に少年と同じ年頃の少女がきちんと正座していた.

ちょこんと座った姿は可愛らしくもあったが,全身に何か力がこもっていて,少年は少女が何か少年には思いつかないような修行をしているのではないかと思った.

 

少女の目の前には籠があった.長さ30cmほどの籠だ.

少年は目を凝らした.

それは虫かごだった.

白い大きな虫かご.

 

少女は籠の中にそっと手を入れた.

白い色が揺れた.

それは蝶だった.

蝶が籠の中にぎっしりと閉じ込められている.

少女は蝶を一匹取り出した.

右手の親指と人差し指で,蝶を摘んでいる.

少女は目の高さに蝶を上げた.

左手が膝から上がる.

左手の親指と人差し指が右手でつままれている蝶の羽を開く.

ゆっくりと細い両腕が左右に開いていく.

右手と左手に蝶が分かれた.

右手に細く黒い体と白い羽が残り,細かく上下に揺れている.

少女の指先がわずかに動き,蝶の半身が庭に投げられた.

 

そして羽だけの左手をさっと高く上げくるりと腕を回した.

しなやかに柔らかく,腕が弧を描く.

遅れてゆっくりと白い羽が舞いながら落ちてくる.

 

少女はまた籠に手を入れた.

同じ様に目の高さに蝶を上げると左右に蝶を引いた.

今度は左手に羽と体が残り,それを庭に投げると,右手をさっと上げ,右に回した.

細い腕がまた弧を描く.

白い羽がゆっくりと左右に揺れながら落ちていく.

少女はまた籠の中に手を入れる.

同じリズムで,何回も,何回も,蝶が引き裂かれていく.

 

きっと庭には片羽の蝶が何匹も体をくねらせているのだろう.それ蟻たちが引いていくのだ.

少女の周りにはゆらゆらと白い羽が舞っている.

 

少年は顔を戻した.

目の前に伸びる黒い枝にせみがとまりジージーと声を張り上げている.

少年はすっと右手を伸ばしせみを捕まえた.

丸くそっと閉じた手のひらをせみの硬い羽が何度もこする.

逃さぬよう少しだけ手を開く.

かさかさと音をたて羽が手のひらを擦り続ける.

少年はわずかに手のひらから出た羽を左手の親指と人差し指でつまみ出すと,目の前に両手を上げた.

右手を少しずつ開きながら出てきた羽を摘んだ.

ジジジジと声を鳴らし,せみは激しく体を揺らす.

少年は少し頭がぼーとしてくるのを何とか我慢し,両の指先に力を込めた.

左右に引いた.

ギギギギギギとせみの声が変わった.

十字架に架けられたせみの羽は硬い.

一気に引いた.

左手にせみの体が残り,激しく手のひらを打つ.

少年はせみの体を庭に投げ,右手を振り上げ,セミの羽を空に飛ばした.

ゆっくりと腕を回し,おろす.

これはきっとギシキだ.

ギシキ。

強くなるためのギシキ.

 

せみの薄い羽が夏の夕方の微かな涼風にふっと吹き上げられた.

見上げた少年の視線の先,宙空に羽は静止し,羽の中で太陽の真っ赤な無数の光の波が交差し,炸裂した.

だがすぐに風は止まり羽は落ち光の炸裂は消えた.

 

少年は全身から力が抜けていくのを感じた.

あの子は今も蝶をちぎっている.

ぼくはまだだ.

 

落ちる.

風の音は聞こえない.

真っ暗だ.

 

少年は糸の切れた人形のように塀から落ちていった.

 

                              2004.5.16