パサージュ67 空を舞っているのは僕の頭だ. 今年の正月娘とあげた凧の代わりに,今日は僕の頭をあげている. 風が強く僕の頭はひたひたと音を立てて,青空を後ろに追いやっている. 頭というのはかなり重い. 娘に持たせて何度も走ったが,すぐにごろんと地面に落ちてころころと転がってしまう. 鼻や目に入った土を払って,もう一度娘に持たせ,走るのだ. 今日の風はいい感じで,ふいっとさっきあがったのだ. あがってしまうとけっこう暇になる. 娘も最初はあがったあがったと喜んでいたが,ぼくが糸をどんどん伸ばし,やがて小さく空の中に溶け込み見えなくなってしまってからは女房の膝で騒いでいて,今はもうぐっすり眠っている. 春なのだ. 桜の花もうっすらと空の青の中に溶け込んでいる. くいくいっと糸を引いてみる. 空の中の小さなぼくの頭が糸をひく. 糸は全部伸び切っていて,端をくるくると指に巻きつけているのだが,巻きつけた糸の間から指の皮膚が白くぷっくりと膨らんでいる. 娘は小さな口をぽかんと開けたまま女房の膝で眠っていて,時々右の腕を小刻みに上げる. 何かの夢を見ているのだ. 先週犬を買った. 柴犬だ.正太郎と名づけた. まだ3ヶ月の子犬で,家の中を不思議そうにウロウロとうろつき回っている. 娘は最初から犬には慣れていて,しょっちゅう犬の頭をヨチヨチと言いながらなでている. きっと夢の中でも頭をなででいるのだ. 犬も女房の横で顎を黄色い草(タンポポだろう)の中に置き,目を閉じている. 娘が手をあげると犬の耳がぴくっと動く. 犬もきっと夢の中で娘に頭をなでられているのだろう. ぐいっと手が引かれた. 巻いていた糸がくるくるっと回転し,指先が摩擦で熱くなった. さっと糸の先が視界から消えた. 見上げると地上2,3メートルのまま,糸はゆっくりと遠ざかり始めた. まずい. 糸の先は左右に揺れている. ぼくは糸を追いかけ始めた. 糸はぼくの頭上2,3メートル,どうかすれば届きそうな宙空を漂っている. 何回かジャンプしたが届かない. それ以上には高くはならない. ただ歩くほどの速さで遠ざかっていくだけだ. このまま糸が木に引っかかってくれればと思うが,前方に木は見あたらない. まるでぼくをからかうように糸は高さを変えずゆっくりと移動していく. あせってきた. 糸の先にあるのはぼくの頭なのだ. このままどこかへ飛んでいってしまう前に引き戻さなければならない. でないと大変な事になる. ぼくは無駄と知りながら何度もぴょんぴょんジャンプする. シートを敷いて昼食をとっていたり,昼寝をしていたり,ふざけっこをしている何組もの家族を避けながら,ぼくは糸を追いかける. 振り返ると,娘も犬も女房もみんなのんきに眠っている. みんなどんどん遠ざかっていく. 糸は相変わらずぼくを誘うように高さを変えず速度も変えず,遠ざかっていく.まるで誘うようにだ. 一体どうすればいい. このままぼくだけどこかへ連れていかれてしまうのか. 正太郎は無理にしても,頭を無くしたぼくを娘は分かってくれるだろうか. 女房は分かってくれるだろうか. きっとどこかで風がやんでくれる. そしてふっと糸は落ちてくる. いや,だいたいこんな状態のままゆっくり風に吹き飛ばされもせず,中途半端に浮かんでいること自体が,不思議なのだ. 今のうちに何とかしないといけない. 棒は? この先木は無いのか? どこかに脚立でも置いてないのか? どうしてこんなことになるのだ. こんなにのどかな春の日に. 2004.3.29 |