パサージュ−66

 

坂を登っている。

傾斜はちょうどいい。きつ過ぎもせず,楽でもなく。

これくらいの傾斜なら,足にもいいし,いいトレーニングになる。

 

さっと虫が耳の横を通り過ぎていった。

微かに揺れた空気が耳たぶを打ち小さな痛みが一瞬はりついた。

羽音は心地よかった。

音は耳にうるさくなる寸前に遠ざかっていった。

ぼくはすぐさま振り返るが,虫はいない。

坂の後ろには誰もいない。

ぼくは耳を掻く。

かゆいのだ。

 

坂はもうずいぶんと長く,しかも登り続けている.

一体どこで平らになるのだろう。

 

坂の右手には蕎麦屋があり,ちょっとした駐車場があり,そこには2台自動販売機が並んでいる。

自動販売機はヴ〜〜〜ンと音を立て,ぼくを苛つかせる。

さっきの虫の羽音はまだよかったのだ。

だがこの販売機の音は全く同じ調子でどこまでも続き,それはたとえば巨大隕石が地球に激突する寸前でも同じように鳴っているような無神経な鳴り方で,それにぼくは耐えられないのだ。

 

機械だからと嘘をつく必要はない。同じように鳴ることはないのだ。

疲れてきたならば,音を落とす。

だがここの自動販売機は同じ様に鳴り続ける。

 

 

地下のマンホールから勢いよく水の流れる音が響いてくる。

深くはないのだろう。

かなりの量の水,かなりの速さで流れている。

水は力だ。

水が変える。何かを変える.

ぼくはそう思いながら坂を登る。

坂のはるか先に桜の木が見える.

ぼっと白く浮かんでいる.

 

またマンホールだ。

同じように水の流れる音が聞こえる。

しかし地下を流れる水は遠い。

どこから遠いのか.

歩いている僕からだ。

水は流れている姿を見せることで見ているものの何かを動かす。

音だけから水を感じるほどぼくの感覚は正しくは無い.

本当に地下を水は流れているのか。

遠くの桜は満開なのだろうか.

 

またマンホール。

この坂ではほぼ50mおきにマンホールがある。

水が何かをぼくに言っているのかもしれない.

だがぼくの耳は低く静かなうなりでふさがれていて,流れる水の音を聞き分けることができない.

マンホールの横にはいつも2,3台の自動販売機が置かれている.

 

ぼくは周りの目を気にしながら軽くスキップを踏んでみる.坂道だからちょっと辛い.少し緊張しているので,スキップは少し不自然になる.

 

地下を流れる水に自分の体の中の水を合わせようと体を揺する.

地下を跳ねる水とぼくの中の水.

 

坂の下から自動車が水溜りの水を跳ねるバシャッという音が響く.

ぼくは激しい腹痛でその場にしゃがみ込み,ウンウンとうめいてみる.

うめいてはみるが痛くも何とも無い.

ぼくの中の水は相変わらず澱んだままなのだろう.

 

ぼくはまた不自然なスキップで坂道をのぼっていく.

 

桜の花が見えてきた.

思っていたよりも花は開いていない.

きっと水が足りないのだ.

この坂の地下を流れる水がこの桜を素通りしていくのだ.

 

下水道を流れる水に触れようと桜は精一杯根を伸ばしている.

 

根はどんどんと細くなり,直径1oにもならない細い細い根がマンホールを流れる水の風に飛ばされながら,伸び続ける.

木は懸命に根を伸ばし続ける.

ひりひりと伸ばし続ける.

だがきっと届かないのだろう.

根の先端は既に枯れ始めている.

次第に水分が無くなり,固くなり,カリカリになり,最後はクシャッと小さな音をたて,砕け散る.

そしてその枯れは,根のもとへと進んでいき,やがて大きく鋭いパリっという音と共に,桜の根は砕け散るのだ.

その下を相変わらず水は流れ続ける.

 

また虫がぼくの耳を掠めた.

ヴ〜〜〜〜〜〜ンという音が耳に張りつく.

僕は頭をくしゃくしゃにしてマンホールに頭をぶつけたくなる.

 

                              2004.3.29