パサージュ−64 階段は確かに急だった. そして暗かった. ぼくは口を開けて呼吸をしているのに気がついた。 匂いをかぐのがいやだったのだ. 匂い。 貼り付けられた子猫の血の匂い。 それでもぼくはドアのノブを回した。 外から見たときほど部屋の中は明るくはなかったが、暖かかった。 部屋は広々としていた。 窓際に白い机と白い椅子。本棚には教科書と参考書、問題集。あとは大きな画集が並んでいる。 ベッドと部屋の中央に薄いブルーの透明なガラスの小さな丸テーブル、それしかない。あとは壁にかかる大きな絵。 絵は地の白く厚いべニアに描かれていて、細いチェーンで天井に渡されているレールからつるされていた。 ぼくは絵から視線をはずしたまま窓に向かいそこから外を見た。 さっきまでぼくがいた道路だ。そして口を閉じた。部屋の中の匂いが鼻腔に流れ込む。その中に生々しい血の匂いは? ぼくは振り返った。 真っ赤なエビとカニと亀。 猫は絵のままだった。 くるくると角の巻いている空を飛ぶネコ2匹。 ほっとした時、反対側のドアが開き子猫を抱いた少女が入ってきた。 猫はまだほんの子猫だった。少女の両の手のひらほどの大きさだった。 小学校の5,6年だろう。 ほっそりとした顔、小さな唇はほんのりと赤い。 目は黒々とし凛とし、髪は短く眉は細く長い。 耳が夕陽を浴びて赤く透けている。 尖った顎を少し上げ、また下げ、ぼくの方をじっと見つめる。 右手で抱いている子猫の小さな頭をなで続けている。 猫は目を閉じたまま気持ちよさそうだ。 「この絵気にいった?」 ドアを閉め背をドアにもたれさせたまま少女が言った. 突き刺すような視線だが、少女の小さな体全体の印象はもろく、触れるだけで 砕け散ってしまいそうな感じがした。 茶色のドアが大きく見える.子猫は相変わらず気持ち良さそうだ. だが視線の強さと深さはぼくの経験した事のないものだった。 彼女に見られると、自分が見られていることがはっきりと分かり、見られたくはないものが明るみに引き出され、審判を受けなくてはならなくなる。だがその視線には汚濁や混乱を吸い込んで浄化してしまう深さもあった。 何も隠せず、嘘がなく、今あるものが彼女の全てであるような気がした。 目の前に立っている少女は、今ここにあることに彼女の全てを表していた。 それは彼女にとって重荷のようだった。夜は明けているがまだ誰も目を覚ましていない、丸く地平線がどこまでも見える、自分の影以外何もない荒野にたった1人で立っている、そんな感じがした。 「変でしょ、この絵。」 そう言うと少女は両手を頭上に振り上げ、花開くように、左右に、開いた。 子猫が宙を舞う。 小さな薄茶色の体が回転し、4本の足が伸び、床に着地する直前に縮められ、吸い付くように着地すると、小さく二ャァと鳴いた。 少女はしゃがみ込むと子猫を抱きかかえ頬ずりをする。 「私も、ヘン?」 「ヘンじゃないと思う。」 ぼくは答えた。 「でもこの絵はヘンでしょ?」 「いや、楽しいよ。いいアイデアだ。なかなか思いつけない。」 「亀さんはすぐに戻すの。お気に入りの石があるからそこに2匹とも戻してあげるの。 エビとカニはサミットで買ったの。ちょっと気持ち悪かったけど、でもどうしてもこうしたかった。」 そう言うと少女はすっと絵の正面に向かい、止まった. そしてゆっくりと赤いエビとカニを引き剥がした。 その下には赤いエビとカニの絵があったが、確かにその絵には何も迫ってくるものがなかった。 「ヘンよね、やっぱし。 それは分かるの。 誰もこんな事しない。 学校にも行かないで、部屋に閉じこもって、絵描いて、描くだけじゃなくて、エビとカニを買いに行って、それを絵に貼り付けるの。 ヘンなの私。」 「ヘンじゃない。」 ぼくは言った。 「君はヘンじゃない。実際描いただけのエビとカニよりも、こうして本物を貼り付けた絵のほうが、ずっと生きている感じがする。ホントは生きてないけど、君のアイデアがこの絵を本物以上に生き生きとした絵にしている。」 「じゃあ、猫も貼り付けていい?」 そう言うと少女は猫を抱きしめながらくるりと体をぼくに向け、見つめた。 触れるだけで赤い血が吹き出てきそうな、きらりと光る細い切っ先の刃物が真っ直ぐにぼくに向かっている。 「いいと思う。きっとそれだけの価値が君の絵に生まれると思う。猫の命はそのためにあるのだと思う。」 少女は机の引出しを引いた。そして中からカッターナイフを取り出した。 小さな親指で刃を押し出した。5cmほど押し出した。 猫はまた目を閉じて気持ち良さそうにしている。 少女は子猫の柔らかなたぷたぷしている首筋に刃を当てた。 部屋は薄暗い. 日は沈もうとしている。風は冷たくなっている。 子猫の首は少女の手首の半分もない。 5cmの刃に多少の力を込めさっと引けば、難なく切り裂かれるだろう。 時間にして1,2秒。小さな体からは血の量もさほどではない。 「きっと君にはその子猫を殺すだけの価値があるのだろう。 ぼくには君を止めるだけの価値がない。 君がそうしたければそうすればいい。 ぼくにできることはきっと、」 ぼくはそこで黙ってしまった。 ぼくにできること。 ぼくにできること。 そんなものはない。 「あなたには何ができるの?」 「ぼくにできることはきっと、せいぜいその子猫の代わりになる事ぐらいだろう。」 「子猫の代わり?」 「そう。でもぼくにこの絵を美しくする事などできない。 だから、結局、何もぼくにできることは、ない。」 「この子猫を助けたいの?」 「猫だけじゃない、君もだ。」 少女の小さなため息が聞こえたような気がした. そうだ、ぼくは少女を助けたかったのだ. 「会ったばかりよ。私のこと何も知らないじゃない。」 「知ってるさ。こんなに優しい絵を描いて、美しい絵を描こうとして、苦しんでる。毎日生きようとして、苦しんでいる。」 「違うの。苦しんでなんかいない。私は苦しめないの。平気なの。」 「だから苦しんでる。いいよ、殺していい。ぼくを殺してもいい。」 少女の首は折れそうに細くもろく、目は朝露のように深く澄み、視線は蠍の尾の先端のように残虐で、唇は開かれた傷口のように率直に言葉を吐き、体は床の上5,6cmに静かに浮かんでいるようだ。 部屋は暗かった。 街灯の明かりがかろうじて少女の顔や絵を浮き上がらせている。 「体の中で焼けた鉄の棒が跳ね回ってるの。」 真っ赤に焼けた鉄の棒が少女の体の中を跳ね回っている。 ぼくは静かに目を閉じた。 涙が出てきた。 そんな事しかぼくにはできない。 体の中を焼けた鉄の棒が跳ね回っている。跳ね回っているのだ。 どすんと小さな音が聞こえた。 右手に持っていたかばんを床に落としたのだ。 ぼくはずっとかばんを手にしたままだったのだ。 倒れたかばんを起こす時、留め金に指が触れ、かばんが開いた。 小さな試飲用のミニ缶が2本残っていた。 「なにそれ?」 少女が聞いた。 「水だよ。」 「水?」 「そう、水。」 「のど渇いた。」 ぼくは缶を開け少女に渡した。 薄暗がりの中、少女の水を飲み干すのどの音がかすかに響く。 水がどこか遠くの世界に流れ込んで行く。 森の奥の小さな泉に湧き出した水が、太陽の光を照り返しながら小さな溝を作り、ちょろちょろと流れ出ていく。水の意志ではない。何かの意思に従って流れていく。 草の上を流れ、草の息をもらい、石の上を流れ、石の思いをもらう。 死んだ獣の上を流れ、死んだ獣の優しさをもらい、生きた虫の上を流れ、生きた虫の喜びをもらう。背中に青空と太陽と雲とを映し、流れていく。 水はそうしてゆっくりと止まることなく流れていく。 流れていく先を水は知らない。 だが水は何かの意思に従って正しい方向へと流れていく。 水に意思はない. 水はすきまを埋める. 水は正しい形を作る. 水はさまし、巡り、もどる. 少女の口を経て、のどを通り、熱い体を巡っていく。 カチッという小さな音とともに、部屋が明るくなった。ぼくは目を開けた。 少女はベッドに腰掛けていた。いつのまにかぼくの横を通っていたのだ. 子猫を目の高さまで持ち上げると、じっと子猫の目を覗き込んだ。子猫も眠たげな目を開け少女を見ている。そして次に横に置かれたカッターを見た。しばらく見ていた。手に取った。そしてゆっくりと刃を引き戻すと、机の引出しに入れた。 「りゅうめいすい?初めて見た。」 少女はわずかに残った水を手のひらに出し、膝の上の子猫に差し出した。子猫は小さな舌を出し水をなめた。 「鉄の棒」 「えっ?」 「鉄の棒は、」 少女はベッドから立ち上がると、部屋の中で突っ立ったままの僕のほうへ歩いてきた。 ぼくの鼻の先に少女の頭のてっぺんがある。いい香りがする. 少女は顔を上げた。小さな花が開いた。 「少しはいいみたい。 おじさんの水のおかげね。」 開いたかばんを見て少女が言った。 「おじさん仕事なに?」 「水販売人なんだ。」 「みずはんばいにん?」 「そう、水売ってんの。」 「お水屋さんね」 振り返ると窓は閉まっていた。 あの窓の向こうに少女がいて、絵がかけられているのだ。 暗くなった道の中にぼくは体を入れた。 2003.10.21 |