パサージュ−63

 

ぼくが売っている水の名前は「流命水」という.

1リットル5000円する.高い水では1リットル2万というのもざらにあるし,それと比べれば安いほうだ.

 

1日に100軒回って,5,6軒で話ができる.

今日も4件と話ができ,1ヶ月の無料体験のスケジュールも置いてきた.

多分決まるだろう.

時刻は5時20分.これから夕食の支度にはいる家が多いので,6時前にあと2,30件まわりたい。

 

ぼくはその区画の一番奥の通りに入った。

奥になると道路の車の音も聞こえず,家のつくりも大きくなり,だいたい庭がやたらでかくなり緑の芝生が色鮮やかに広がる.テニスコートやバスケットゴールもあり,ガレージには自動車が2台3台と並ぶ.

家の周囲をめぐる塀がなかなかなのだ.よく見ると凝った細かな彫刻が何気なく,ずらりと続いていたりする.ぐるりと200,300mと続いているのだ.

 

ぼくは周る順番を考える.効率よく周りたい。

一番奥の家から周る事にする.

 

ちょうど奥へと入る近道があった.

通りと通りとを結ぶ細い道だ.

きれいにそろえられた背の高い木々が両側に並びアーチを作り,その下をくぐっていくような形になる.道も中世のお城が次々と描かれた石畳になっている.

ふと見上げると,2階の窓が開いている.枝々の間から開いた窓が見える.

だいたいどの家も間に庭を置き,道路と建物との間隔はかなり離れているのだが,その家のその棟はその狭い道から5,6mほどの所にあった.

白いカーテンがはしっこでふわりと揺れた.

部屋の中が見える.

壁にかかる絵が見える.

 

緑色の川が右上方から左下方へと流れ,川のほとりに青い小さな五角形の家が並び,青い空を白い角のある子猫が2匹,飛んでいる.角がくるくると回っている.右上すみには黄色い月と星が五つ輝き,左側の緑の川の上には白い入道雲がもこもこ空へと広がり,その上に橙色の太陽が輝いている.

 

緑の川には川幅一杯に真っ赤なエビとカニが並んで泳いでいて,向こう岸には青い五角形の家と同じ大きさの亀が2匹向かい合い,首を上げている.互いに笑っているように見える.

 

 

かなり大きな絵だ.

道路からでもそれらの絵の一つ一つの輪郭がはっきりと分かる.

縦1m,横2m以上はあるだろう.

奇抜な絵だがとてもバランスが取れていて,見ていてホッとする.

色が柔らかく,どれもみな宙にふわりと浮いているような感じがして,のんびりと落ち着くのだ.

 

ぼくは道路からその絵を見上げていた.

西日が入っていて,部屋の中は明るい.

人の家を立ち止まって見上げるというのも失礼な話なのだが,とにかく絵はぼくの正面に、開け放たれた窓の中にちょうど良く収まっていて,まるで見てほしいとでもいうように暖かな夕陽の中に浮き上がっているのだ.

ぼくは道の端に置かれた石に腰をおろした.

腰をおろした分だけ視界に角度がついた.

絵の印象が変わった.

何が変わったのか最初はわからなかったが,よく見ているうちに気付いた.

絵に奥行きができたのだ.

わずかだが立体感が生まれている.

ぼくは1度立ち上がり,また石に腰かけ,今度はしゃがみ込んでみた.

まちがいなかった.

この絵は,絵だけではない.

真っ赤なエビとカニは本物だった.

亀もそうだ.

エビとカニと亀がキャンパスの上に貼り付けられている.

亀はよく見ると動いていた.最初笑っているように見えたのは亀が首を振っていたからなのだ.

 

ぼくは記憶を確かめた.

もう一度確かめた.

そして視線をゆっくりと右へと移した.だが焦点を合わせる事ができない.

ぼくはもう1度記憶を確かめた.

ぼくは小さく溜息をついた.

体が固まっている.肩が上がり呼吸が浅くなっている.

心臓の鼓動が感じられる.

 

猫は?

 

ぼくは目に力を入れようとした.

 

「はいって.」

 

 

「入って,おじさん.」

 

緑の川と青い空を背景に少女が立っていた.

「そこにフクロウの石があるでしょ,その先に木戸があるの.開けて入って。

 正面のドアを開けて上がってきて.階段は急よ.」

そう言うと少女はくるりと振り返り消えた.

 

ぼくは通りの先を見た.

確かにぼくの背丈の半分ほどの石が立っていて,正面が浅くくり抜かれ,中央に木の枝にとまる首をかしげるふくろうが浮き出ている.

ぼくはふくろうの石に向かった.

木戸に入る前,ふくろうの石に触れてみた.

石はざらついていて冷たく大きくもなく,またくり抜かれている割にはしかし石らしく微動だにしなかった.

木戸はちょうどそのふくろうの石と同じ高さで,ぼくは体をかがめて木戸をくぐりぬけた.

体を折った時、カニの匂いだか,エビの匂いなのか,それとも亀なのか,何かの匂いがしたような気がした.

いい匂いなのかいやな匂いなのかもぼくには分からなかった.

 

軽いめまいがした。

 

                        (続)         2003.10.17.