パサージュ−62

町の北側に工事途中の道路がある.

墓地を前にして、工事がストップして2年が経っているらしい.

詳しい事は知らないが,墓地を迂回するという話がどこかで行き違い,そこからもめ始め,今日にまで至っているという事だ.

 

墓地は小さなゆるやかな丘のふもとから頂上にかけてあるのだが,墓を取り囲む林の木々が広く枝を伸ばしていて,そこだけが離れ小島のように切り離され,薄暗くなっている.だが枝の間から斜めに降り下ろされる陽光は真っ直ぐで,地面に明るい陽だまりがあちらこちらに点在し,それは小さな光の池のようにゆらゆらと揺れていた.

 

墓地は江戸時代からの古いもので全てが整理されているわけではなく,寺も大きく古く,由緒ありげで堂々としている.

大きな墓は明治以後大理石の立派な墓石に改められ,その後にできた新しい墓を従え,丘の上から悠然と他の死者たちを見下ろしている.

丘の麓にあるのはどれも小さな墓,朽ちかけた墓,斜めになった石の墓ばかりで,墓は雨風にさらされ,欠けた石をそのままにし,傾き,死者の名前も読み取ることはできない.

 

道路はこのふもとの部分の墓を突っ切る形で,当初の墓全体の迂回という計画を変更しようとし,寺側から受け入れられず,そのままになっているということだ.

道路はすぐそこまで来ている.

50m先で4斜線の道路がふもとの墓を睨んでいる.

 

 

「いやなもんですよ.」

 

高木さんが言った.

高木さんは水を買ってくれた人で,たまたま道に迷ってこの墓地をうろうろしていた時に出会った.

高木さんは墓の掃除をしていた.どの墓というわけではなく,順番に掃き,墓石に水をかけ,タワシでこすり,拭き,花をいけ,両手を合わせていた.

 

「どのみちこのふもとにある墓は別の場所に移されます。お寺さんだって,ここの墓は殆どが無縁仏になっていて,金にはならない.道路を通せば金になる.

いまはただ値を吊り上げているだけですよ.

あの道路はまるで蛇ですわ.このお墓はカエル.じきに飲まれてしまう.」

 

そう言って高木さんは体を伸ばしトントンと腰を叩いた.

「あんた,水は売れたかね.

あれは調子いいよ.あんた飲んでるかね.

飲んでみるといいよ.あの値段だと拾いもんだと思うね.」

 

ぼくはもちろん飲んでいると言った.

飲んでもないものを売ったりはしませんと思わず言ってしまった.

 

「いや,失敬.申し訳ない.いやただ,別にいいんだよ.

私だって,使った事もない,機械を何千,何万と売ったんだから.それは仕事なんだから構わないさ.そりゃ飲んで気にいってる物を売ってるんなら,それにこした事はないさ.」

 

そう言うと高木さんは目にしわを寄せていかにも申し訳無さそうに笑うと,またほうきで地面を掃き始めた.落ち葉は多く,湿っていて,なかなか掃くのにも骨が折れそうだった.

 

「ここにはどなたのお墓が.」

 

のんびりした午後だった.

高木さんのくちゃくちゃの目の周りのしわがぼくにそんな私的な質問をさせた.

ぼくは私的な質問はしないし,されても答えない.

だがその時はとてもゆったりした気分だったのだ.

 

「別に.みんな他人の墓さ.あそこら辺の石の墓はみんな倒れてたよ.誰かが起こしてやらなかったら,そのまま永遠に倒れたままだったろうよ.起こしてやるまでに2,30年だか,4,50年だか,もしかしたら100年以上たってた墓もあったろうさ.

倒れたまんまの墓なんて,えらく寂しいもんだ.前のめりになった墓なんて特にそうさ.」

 

そう言うと高木さんは近くの木にぶらせてあったリュックから水筒を取り出しうまそうにごくごくと音を立てて水を飲んだ.

 

「あんたから買った水だよ.」

 

そう言うとまたごくごくと音を立てて飲んだ.目を閉じて,おいしそうに飲んだ.

ぼくも試飲用にもっているミニ缶を1本開け,飲んでしまった.

こんな事は普段はしないのだ.

 

「あんた,子供は?」

 

ぼくはいないと答えた.まだ一人だと付け加えた.

 

「わしもだよ.

生涯一人だった.

うまく生きられなかった.

何がいけなかったか,今でも時々考えるが,わからん.

でももう80を越してしまえば,それもどうでもいい.後悔もない.やっとなくなった.

いつだったか,随分前になるが墓を起こしてやった時、良い事をしたと思った.

そんなことで,あとはお迎えがくるのを待つだけだ.」

 

水をかけてタワシで石をこすり始める.

シュシュシュという音が規則正しく続く.

その音が止まる.

 

「あんた幾つだ?」

49ですとぼくは答えた.

 

「けっこういってるな.」

また目にしわが寄った.

1度ぼくを見て,またタワシを持ち直すとシュシュシュという音が規則正しく続き,今度はしばらくの間その音が続いた.鳥の声が林の奥から聞こえ.声は遠ざかっていく.ぼくはその声を追った.

 

 

「墓を起こすのもいいが,墓は冷たいんだ.やっぱ温かいもんを起こすほうが良い.あんたの分もわしが持ってってやるからな.

水に従うのさ。」

 

フ〜と長く吐く息が聞こえた.

ぼくは高木さんを見た.

だがそこに高木さんはいなかった.

ぼくは思わず立ち上がった.

高木さんはそこにはいなかった.

ぼくは木につるされているリュックを見た.リュックはそこにぶら下がっていた.

箒もタワシもそこにあった.

高木さんの掃いた落ち葉もこんもり山になっている.

何もかも変わってはいない.何も変わっていなかった.

ただ高木さんだけがいなかった.

高木さんだけがここからいなくなっていた.

 

 

ぼくは高木さんが洗っていた墓に触れてみた.

墓は冷たかった.

確かに墓は冷たかった.

 

003.10.15