パサージュ−61 留守宅ばかりが続いた。 たまにいても老人たちばかりで,話をつめることができない。だが資料などを置いていけるので,次につなげる事はできる。もっとも2度目のその時にあっさりと断られるのがほとんどなのだが。 ぼくは水を売っている。水の営業。 阿蘇の山の地下水だ。 色々と体にいいものがはいっているらしい。 成分についての詳しい事はわからないが,ぼくは毎日会社で飲んでいて,事実体の調子はけっこう良く,気に入っていた。 水は飲み放題だった。 まず売る人間がこの水の良さを知らなければならない,どんどん飲んでこの水の素晴らしさを自分自身で体験しなさい。 課長にそう言われて,ぼくは毎日飲んでいた。 会社もこれは真面目なものだから真剣に売るようにと朝礼ごとに言っている。 この水を飲んでガンが治った人や,持病が治った人が何人もいるというのだ。 その体験談のコピーは会社の壁中に張ってあるし,ぼくらの持つリードブックという営業用のトーク集の中に同じものがある。 みんな嬉しそうな顔の写真と共にこの水の効用を語っている。 それが意外と謙虚に語っているのだ。 水を飲むだけではだめだ。水を受け入れる器をまずしっかりしなければならない。 日ごろの心がけや,睡眠,粗食が大事だ。それがあってこそのこの水だなのだから。 みんながそう言っている。 ぼくはなるほどと思い,この会社に入ってからは毎日の酒はひかえ,睡眠時間も6時間以上は取るようにした。また肉をやめ玄米菜食にまで切り替えた。 器が大事なのだ。 その器ができた時この水は決定的な力を発揮する,と社長が言った。 社長はこの水の開発者だった。 人の良さそうなぼそぼそと話すような人で,それが逆に信頼が置けた。 副社長は逆にいかにもやり手という感じのぎらぎらした男で,社長の話の後を受けて,いい人でしょ。社長。もう30年いっしょにやっている。いい物を作って,損ばかりしている。誰かが支えていかないと。良い物は良い値段で,世間に広まっていかなければならない。社長の善意をみんなで広めていかなければならない。それが私の役割だと思っている。それがみんなの役割だと思っている。 みんなでこの水を世間に広めていきましょう。 いつも副社長はそう言った。その横で社長はうんうんと嬉しそうに頷いていた。けっこう本当っぽく見えた。 決定的な力。 この言葉がぼくは気に入っていた。 とどめの水だ。 ぼくたちはお客さんにまず器作りについて語る。 生活習慣を変える事を言う。 そのための2週間分のスケジュールをまず作ってあげる。 そしてその後にサンプルに無料体験の水を2週間分渡す。 その間に電話で様子を聞く。睡眠や粗食が実行できているかを確認する。週に2度,水曜と日曜の夜にだ。今はメールがほとんどなので電話よりずっと楽でいい。 そして1ヵ月後,この水の効用をあらためて説く。 ぼく自身よくわかってはいない色々な専門的な数字をグラフと共に並べて見せる。 そしてこの水が決定的な働きをする事を言うのだ。 既に1ヶ月健康的な生活を続けているので,水は体にすっと染み渡っている。元々インチキではないものだから(ぼくはそう思っている),お客さんも納得してくれる率は高いのだ。 市販の水の10倍の値段で,かつ3ヶ月以上からの申し込みだったが,それでもまあまあ売れた。 ぼくは時々ネットカフェで時間をつぶした。 喫茶店や漫画喫茶よりもそのほうが時間はつぶせた。 ネットの検索に水の名前を入れると会社が作った営業用のページ以外にけっこう出てくるのだ。 この水がいいの,勧誘の営業マンがいい加減だの,いや今時立派だの,いやこれは奇跡の水かもしれないだの,けっこう出てくる。 話題になっているのだ。 もっとも2チャンネルに書き込んでいるこれは奇跡の水かもしれないという言葉は,係長の書き込みだ。 係長はまだ25歳だ。ぼくより24歳若い。今年昇進した。係長はこの前のミーティングで,この水の効き目は本物なのだから,広める価値はある。それで救われる人がいるのなら,知らせる意味と必要がある。その人に必要な出会いを作るわけだから,悪い事ではない。効かなければ解約をすればそれですむことなのだから別に問題はない。 そう言って,自分でスレッドを立て,お客に成りすまして水の効用を書いた。 ぼくは立派だと思った。 別に会社がやれといったわけでもないのに,販促として実行しているのだから,仕事熱心だと思ったのだ。 この飛び込みのセールスは,実際飛び込みそのものだった。 他の物ならターゲットとかを絞り込む事ができるのだろうが,水ともなると誰がそれを必要としているのかを絞り込む事はできないのだ。 子供でも大人でも老人でも,必要とする人はどの世代でもいる。だからぼくらは順番に家々を回った。 即決は難しい。 だが一度話を聞き始めて,まず生活習慣の改善を聞いてくれたなら,あとは水の無料試飲と続けて大体はOKとなる。 1日,100件回って,5,6件手応えがあって,1,2件成約になる。 週に4,5件。月に20件弱か。 だが訪問から成約まで基本的に1ヶ月かかるので,いつも幾つも重なっている。自己管理というか,顧客の管理をきちんとしておかないと訳がわからなくなる。 それに1件の単価が小さいので,数をこなさなければならない。チョコチョコと動かなければならない仕事なのだ。 今日からしばらくぼくは東京の大田区を回ることにした。 特に意味はない。たまたま開いた地図が大田区だったのだ。それをコピーし,訪問する地域を赤で囲む。そして1ヶ月の割り振りをし,訪問予定表を作り,月初にそれを係長に提出する。 そしてその月の営業が始まるのだ。 10月。 今年は冷夏だった。 しかし9月になり急に暑さがぶり返し,だがまた10月になるといつもの秋に戻った。 こんな不順な天候はぼくたちにはありがたい。体調を崩している人が多いからだ。 目蒲線に乗りぼくは鵜の木という駅で降りる。 駅前の通りの商店街をぬけるとあとは住宅街の小さな町だ。 多摩川に向かうと小さな工場がずらりと並んでいる。 一時期この工場の殆どがシャッターを下ろしていた。 小さなねじを作ったり,旋盤の工場が多かったのだが,仕事がコンピュータ化されるにつれ受注がなくなり,続々と工場が潰れていったのだ。 だがその後,コンピュータそのものが進化し,機械の部品もこれまでの部品とは別のより効率の良い,新しい部品が求められるようになった。そして新しい部品には新しい技術が必要となり,その技術がここにはあった。そしてこの辺りの工場は,またどん底から這い上がり浮き上がり,今ではこれまで以上の波に乗っている。 だが工場そのものは以前と変わらない。時が経つにつれどんどん古くなっている。だが中に入ると置いてある機械,使っている機械がえらく新しく,違和感が漂う。使っている工員も,よれよれの使い古しのつなぎに,ぼさぼさ頭,年も取っていて,背筋も伸びていない。機械を見る時はメガネをはずし,グッと顔を近づける。そのとき口はへの字になり,手で首筋をぼりぼりとかいていたりする。 人は変わっていないのだ。 技術を支える手も腕も目も変わっていない。多少は落ちているだろう。年を取っているのだから。だが職人の腕はそうは簡単には落ちない。 そして時代が変わり新しい部品が必要となる。 彼らの腕がそこで必要となる。 そんな時の彼らの腕は,何か一瞬にして忘れていたものを取り戻すどこか神ががり的な力を見せるのだ。最後の輝き,なのかもしれない。 ぼくはたまたまそんな町工場に入った。 大きな工場だった。だが工場の半分は使われていない。置かれている機械にも埃がたまっていて,その場所だけ時間が止まったような感じがする。だが残りの半分には黒々とした機械と油のにおいが立ち上っていて,その空間の輪郭もくっきりとしていて,すぐにその中に体を入れていくことができたのだった。 「0.001oの違いなんて機械じゃわからないよ。わかるのは人間の皮膚。皮膚の感覚。 それでしかわからない。それが辛いけど,最近鈍ってる.そりゃ年取ってるからな. 当たり前と言えば当たり前.じゃあ,何がいけないか.何がいけないと思う?」 76歳の近藤さんはぼくに向かってぐっと顔を突き出して聞く. 前歯が欠けている.でも目の光が強い.思わずぼくは身を引いてしまう. 「何が足りないからだと思う?」 近藤さんは初対面のぼくに向かってたたみかけて聞く. 「どうよ.何が足りないとあんた,思うね.」 ぼくはようやくそこで,思い至る. 「水,ですか?」 「そうよ.水よ.水.水分. 体から水分が抜けてくのよ.干からびてくのよ.年々,月々,日々,水が抜けてくのよ.」 近藤さんはそう言って,両手の人差し指を真っ直ぐに立て,じっと見つめる. 「水が,抜けてくんだ.干からびていく. そりゃそうだ.それが人間だ.最後はカサカサになって死んでいく.カサカサになるから死ねる.水は感覚だ.水が固さや柔らかさ,熱さや冷たさ,強さや弱さ,大きさや小ささ,を教えてくれる.そいつがなくなるんだ.まずいさ.えらくまずい.仕事をしていこうと思ったら,えらくまずい. だから,あんた,あんたの水をやってみたいのさ.」 近藤さんはそう言うと,ぼくをにらみつけた. 「あんた,自信あるかね.それが本物だって自信. まあ,とはいっても,高々しれてる値段だからね.こっちも文句は言えんがね.いいよ.半年あんたの言う通りやってみるよ.酒と睡眠かね.それも守るさ.水も倍飲んでみよう.別に副作用もないだろう.俺とすりゃあ,体に水が欲しいのさ.」 1ヶ月が経った. ぼくは近藤さんの工場へ行った. 連絡がなかったのだ.電話やメール,ファックスを送っても帰ってこない. ぼくは工場へ行った. 本契約をするかどうかをどの道確認しなくてはならない. いつもと同じく夕方の6時に工場へ行った. この時刻が工場の昼の仕事の終わりだった.工場はその後夕食を食べたあと夜の部へと移る. 若い連中は帰っていてもういないが,創業からの人たち,近藤さん以外に5人がいて,彼らは皆遠慮も何もなく,新しい技,新しい仕組み,新しい製品について,これから2時間,3時間と機械を動かしながら話し合っていく. そんな中に入っていくのは難しい.タイミングを狙いはするのだが,どのタイミングでもえらく緊張感が漂っていて,入り込めない. ぼくが来ていることはみんな知っているのだが,なかなかぼくに話しかけてはくれないのだ.特に今日はそうだった.もう来てから1時間近くになる.話はいつもより熱く盛り上がっているので,ぼくも入り辛い.そして何よりも近藤さんがいないのだ. ぼくはもうどうでもいいやという気分で,イスに座った.目を閉じて,別に眠ってしまってもいいやという気持ちで待つことにした.今日も仕事はつらかったのだ.仕事はここだけではないのだ.実際の話. 「近ちゃんさぁ」 ぼくは飛び起きた.近藤さんの右腕と言われている佐々木さんの声が耳元でしたのだ. 「近ちゃんさぁ,ちょうど1週間前死んじゃったんだ.」 ぼくは最初その言葉の意味が良く理解できなかった. 死んだ?近藤さんが?あの近藤さんが?水を注文してくれた,あの近藤さんが. 1週間前.死んだ.死んだって,死んだってこと? 「近ちゃんさぁ,えらく喜んでたよ,あんたの水. あんたの水って,えらく良かったらしい.近ちゃん言ってたよ.」 結局近藤さんの契約はならなかった. そりゃそうだ,近藤さんは死んでしまったのだから. だが佐々木さんや,あの工場の人全員,11人が契約してくれた. それも3年間の契約だ.別に4年,5年でもいいのだが,今の法律では3年が最長となっている. 近藤さんは最後に微妙で数値に置き換えるのが難しいというもの全てを数値に置き換え,残した. それはこれから新しい仕事をしていこうとする仲間にとっては何よりも貴重で,また他のライバルにとっては絶対に欲しい数値だった. 近藤さんは真夜中,本当に嬉しそうに笑いながら決定的な数値を佐々木さんに伝えたという.近藤さんが感覚で知り,確認した数値をコンピュータに入れていく.これは数値としては誰もがあれっと思う数値だったらしい.だが実際にその数値をコンピュータに入れ作動させていくと完璧な製品ができる.そんな数値なのだそうだ. 「これなんだ.この数値でまちがいない.これは俺の肌が覚えている数値だ.」 そう言って,近藤さんは3日間徹夜して,自分の感覚を数字に置き換えて,死んだ. 「あんた,あの水,うちらに持ってきてくれ.あれはいい水みたいだ.」 佐々木さんはそう言うと鼻を大きくすすり,口を開け天井に顔を向けフ〜と息を吐いた. 佐々木さんの癖だ.下品といえば下品だが,この人も近藤さんと同じように生きている人間として生々しく,そんなことでとやかく言う相手ではないのだと思ってしまう人だった. ぼくはこのことから水をきちんと売ることを自分の仕事としてみてはと思ったのだ. 水販売人. ぼくの仕事だ. 2003.10.12. |