パサージュ−60 その村には24年に一度、8月の満月の夜に蝶の舞いを見るというイベントがあった。 ぼくはそれを蝶の生態をネットで調べているうちにたまたま知った。 画面の左奥から色を青から黄色へと変えながら、小さな蝶の群れが現れ、右前に向けて一列になり大きくなり、画面右端を通り過ぎ消えていく。 そのあと画面には蝶たちの残した青い粉と黄色い粉が混ざり合い光ながら点滅し、画面はやがて光に溢れ立体化し、そしてスーとおさまりそれと入れ替わりに「24年に1度、8月の満月の夜、蝶が舞う。高知県羽根崎村。」という文字が浮かび上がり、消えていった。 それだけだった。 満月の夜に蝶が舞う。 それしか情報としては分からなかった。 蝶の群れが現れ、浮かび上がった文字が消えるまで、10秒ほどだった。 その後、画面は一つ前の画面に戻り、それきりだった。 履歴を見ても残っていなかった。 誰かのいたずらだ。 そんな事をする奴はいるのだろう。それをたまたまぼくが見た。それだけだ。 ぼくはそう思った。 だが調べてみると地図にその村はあったし、8月の満月の日、つまり8月12日はぼくが入社以来19年目にして初めて取った長期休暇の初日だった。 どっちみち取った休暇に予定はなかった。 本でも読んで、飽きたらビデオでも見て、それに飽きたら昼間から酒でも飲んでいようと思っていた休みだった。 それでぼくは高知に行くことにしたのだった。 羽根崎村は土佐湾に面した小さな村だった。 宿を取る際に蝶の舞いについて聞いてみると、確かに8月12日満月の夜、村の奥の森でそのイベントがあるという事だった。 24年振りです。とてもきれいだということです。私も実は初めてなんです。楽しみにしていらして下さい。 まだ20代だと思われる女将がそう言った。 宿はJRの羽根崎駅から歩いて20分ほどの丘にあった。耳をすませば波の音が聞こえたが、それより森からの蝉の声のほうが圧倒的に大きかった。 窓を開けると土佐湾が見えた。 白い波が砕け散り、霧のように海は煙っていた。 宿の女将は電話で話した人だった。だから女将というのは当たらず、ジーンズにTシャツのスリムでショートカットの活発な目の大きな、そしてその目の澄んだキラキラとした人だった。宿帳に書くぼくの名前や住所をえらく真剣に見、書き終えるとぼくの顔を正面から見つめ、「蝶はとても綺麗です。美しすぎるほど綺麗だと聞いています。私が今夜ご案内いたします。」となぜかきっぱりと言った。 別に宿の人が村のイベントのために案内をする事は不思議でもない。不自然でもない。 ぼくはそう思い、彼女に頼む事にした。 彼女の名前は高野芙佑子といった。 夜の9時。 既に満月は昇っている。 芙佑子さんが部屋にやってきた。 「どうぞ、これから森に参ります。車で30分ほどかかります。そこからはすぐです。」 そう言うと、ぼくを見ることもせず、廊下を音もなくさっと歩いていった。 ぼくは急いで後を追った。 車は小さな軽だった。 助手席に座ると車は月明かりの中,道をゆっくりと進み始めた。 舗装された道は畑や田んぼを大きくカーブしながら進んでいく。 その途中には小学校や公民館や農協の大きな倉庫や集会所があり、小さなヘッドライトの中にそれらが浮かび上がり,消えていった。 前方に小さな輝きが現れそれが蝶なのかと一瞬目を凝らし,それが道に立てられたミラーの中の車のヘッドライトだと気付くと,ぼくは一体こんな夜の中,いくら月明かりに明るい夜の中とはいえ,蝶たちが舞うとはどういうことなのか,どんな光景なのかと想像してみたが,うまく思い浮かばなかった。 やがてヘッドライトの中に見えるのは狭いでこぼこの道とどこまでも続く道の両側に等間隔に続く,木々だけになった。 ライトが当たる度に木の枝や木の幹は突然わっと目の前に浮かび上がるが、それを過ぎると月明かりの中に溶け込み、何か全く別の力を持った別の世界の何かに姿を変えていった。 どこかまるで別の世界に連れて行かれる。 ふとそう思った。だがそんなことはない。 ぼくはいつだっていつもの、いつもある、これからもいつもあり続ける世界の住人なのだ。 「蝶は、時を超えて、人の心に火をつけます。それが蝶の役目です。」 芙佑子さんがハンドルを握りながら突然言った。 芙佑子さんは背筋を伸ばし,正面をしっかりと見据えていた。その言葉も凛として,しばらくぼくの耳の中に残った。 小さな車内の空間が道のでこぼこの振動にも関わらず,確かな移動という感覚をぼくに感じさせた。 ぼくはまちがいなく向かうべき所に向かっている,そんな感じだ。 ぼくは聞いた。 「火をつけられた人の心はどうなるのでしょう。」 「燃えます。」 「燃えて?」 「燃えて、狂った世界を直します。」 芙佑子さんはそう言うと車を止めた。 そしてゆっくりとハンドルに顔をうずめ、動かなくなった。 ぼくは芙佑子さんをじっと見ていた。芙佑子さんはハンドルに顔をうずめながら動かなかった。泣いているようだった。 何故こんな時にこんな風に泣かなければならないのか分からなかったが、ここでこうやって泣くしかない確かな理由が感じられた。 ぼくは黙って芙佑子さんを見ていた。 芙佑子さんはしばらくして顔を上げると,ギアをゆっくりと入れた。 ぼくの方は見なかった。 坂の勾配が次第に急になる。 軽のエンジンではけっこう辛い。 1000mに近い山だった。 芙佑子さんは車をとめた。 サイドブレーキを引きエンジンを止めドアを開け外に出た。 そして数歩あるくと立ち止まり,大きく深呼吸をし正面をじっと見つめた。 そこには満月の光を受けた,ごつごつとした杉の木があった。 幹の直径は5メートルほどはあるだろうか、すーと20mほど伸びた後、右に幹が曲がり、そこから幾本も枝が分かれ、しかしすぐに左に曲がりまた元に戻ると今度はまっすぐに満月に向かって伸びていった。これほどに高い木は見たことがなかった。 梢が月に着いている。 ぼくも外に出た。 静かだった。 虫の声も木のざわめきも鳥の声も音という音がどこかに吸収されていた。沈黙の音もなく,空気はどこかゆっくりと,とてもゆっくりと収縮していた。それはとても心地よかった。 ぼくは芙佑子さんの横に並んだ。 芙佑子さんの少し上げられた細い顎をぼくは見つめた。 芙佑子さんが微笑んだ。 「蝶がいます。」 芙佑子さんが言った。 「これから蝶が飛びます。」 「そして蝶が燃えます。」 「最後の蝶が燃えた時、私が飛びます。」 「私が飛んだ時、あなたも飛んでください。」 満月の明りはさらに強くなっている。小さな蝶が燃えたところで満月の明りにはかなわない。どんなに燃えたところでたかだか蝶なのだ。 それにぼくは飛べない。 木が揺れた。 地面が揺れた。 空気が今度は大きくはっきりと揺れた。 青や黄や金や赤や緑や橙や白や紫の光が木から落ちてきた。落ちてきてすぐに上昇し、一列になり、こちらに向かってきた。木の枝の葉は全て蝶だった。 蝶の群れがこちらに向かってくる。 月の明りが後に押しやられる。無数の蝶の羽音が周囲を圧する。だがそれは蝉の声とは全く別のとても柔らかで穏やかでささやかで,しかし幾層にも渡り,周囲の生き物の心や体の全ての仕組みを組替えていくような,深く細やかな,圧倒的な圧力だった。 ぼくは芙佑子さんを抱き寄せた。 芙佑子さんの体は柔らかく軽く、脆く、しなやかで、豊かで、艶かしかった。 満月を背負った無数の飛び交う蝶たちははしかし突然ふっと宙に止まり、互いを見合った。 そして次々とペアと作った蝶たちが同じ行動を取り始めた。 2度、3度、互いに互いの周りを飛び合う。交差し合う。 そしてすーと50cm程の間隔を開けたまま真っ直ぐに上昇すると,すっと同時に体を寄せ合う。 その瞬間2羽の蝶はぼっと燃え上がった。 真っ赤に燃え上がった。 そして消えた。 あちこちで,次々と,何千,何万という蝶たちが,次々と小さな炎となっていく。 消えていく。 最後のペアの蝶が燃えた。 芙佑子さんがぼくの手を強く握った。 ぼくの目を覗き込んだ。 深い湖のような目が月の明かりと蝶の燃え上がる光を映している。 そこにはぼくもいた。 小さく頷くと顔を上げた。 ぼくの視界から芙佑子さんが上昇していく。 すーと上昇していく。 細い両腕は腰の後ろに伸ばされ,指先が伸びている。体を少し反らせながら短い髪が耳の後で風に揺れている。 ぼくは軽く地面を蹴った。 最初首筋に緊張が走ったがすぐに消えた。 無理に反らしていた背骨からも力が消えた。 何度もこれまで夢の中で空を飛んだことがあったが,それとは違っていた。 夢の中でぼくは水中で立ち泳ぎをする要領で空を飛んでいたが,今は違った。 腰の中央にほんの少し上向きの力を入れるだけで上昇が続く。 右に重心を移すと右へ旋回した。 ぼくたちは満月の高さまで上昇し,止まった。 そして2度3度,交差した。 1mほど間隔を取り,見つめ合った。 満月の前でぼくたちは抱き合った。 蝶たちより少し大きな輝きが上がった。 2003.10.1 |