パサージュ − 58      

 

幾つもの死んだ卵が転がっている。2oほどの卵たちだ。

寄り添って繭のように球形を作っているものもある。

殆どは転々と散らばっている。

冷蔵庫と壁の間30cmの所だ。

暑いはずの夏があっという間に過ぎ去り、秋になり、ところがまた思い出したように急に暑くなり、だがすぐさままた季節通りの温度に下がった。

 

一瞬の隙をついて命は自分を残そうと卵を産み付け、しかし自然の気紛れでそのまま死へと引き戻された。

2oほどの卵が、数えればきっと1万個近くあるに違いない。

私は止めに殺虫剤をかける。

白い霧の風圧に卵はコロコロ転がる。私は一瞬こめかみに風を感じる。

 

 

この人はいつも停留所の手前300mほどで、走るのをあきらめる。

私はできるだけ待とうとするのだが、限界はある。

彼女が乗れないと諦めたのだから、こちらもそれに合わせて出るしかないのだ。

彼女の為に2分も3分も出発時刻を延ばすことはできない。

バックミラーの中の小さな丸い顔は次第に大きくなるのだが、わからない。

 

待てばいいのだ。

乗客はいない。

だが規則だ。

 

 

このコースをもう5年走っている。

ニュータウンの循環コースは2年前ダイヤ改正があった。

ようやくこの街にも人が入り始め、本数を増やしたのだ。

6時から走り始める。

7時に東京直通の快速電車があるのだ。東京まで45分。

それに合わせる。

1度戻ると1時間の空きがあり、2度目の循環に入る。

その時に例の女の人と会うのだ。

バス停の時刻は9時42分。

だから彼女は9時−5時の仕事ではないのだろう。

といっていつも9時42分のバスに乗ろうとしているのだから、それほどフリーな仕事ではないはずだ。

 

 

 

客のいないバスというのは寂しいものだ。

停留所にも殆ど私のバスを待っている者はいない。

背中の後に客のいないバスを動かすというのはつらいものだ。同僚はそんな事はないと言う。気楽で良いじゃないかという。

乗客はいないのだが、私は次の停留所のコールとその応答を確かめる。

誰もいないのだが、降りる人がいるかいないのかを確かめる。

それが仕事だ。

そして停留所に私を待つ人がいるかいないのかも真剣に確かめる。

大体いないのだ。

誰も私を待つ人はいない。

だがだからといって何かの都合で誰か一人いて、それを見逃したりしたら大変な事になるので、私は集中して停留所を確認する。

 

乗客のいないバスを動かしている時には、色々な事を考える。

一体俺は何をしているのだと。

 

 

 

朝の客を乗せ、またあの女の人が停留所の手前300メートルまで走ってくるのを見て、私は乗客のいないバスを発車させる。

待っていてもいいのだろう。

だいたい私のバスは、朝と夕方、それに最終便以外には客はいないのだから。

こんな大きなバスに私一人しかいないのだ。

背中が、重い。

私は、アクセルを一気に踏み込む。

意外には加速は良い。エンジンが驚いたように声を振り絞る。

風景はあっという間に過ぎ去り、信号と信号の合間は短い。ブレーキで前のめりになる。

歩道を歩く人々の表情がいつもと違う。

えっという感じでバスを見送る。

 

私はアクセルをさらに踏み込む。

停留所にも止まらない。

このまま私は駅に突っ込むことに決める。

 

 

急カーブを切り、駅の自動改札を吹き飛ばし、構内に入り、階段を下りていく。

白髪の混じった初老のサラリーマンは階段の壁にカバンを持ったまま両手を頭上に広げへばりつき、大きく目を見開き、口を大きく開いたままだ。メガネがずり落ちている。

 

 

簡単だ。問題ない。やってみれば何ということもない。ないのだ。

ホームに駈け降りる。ベンチも自動販売機も簡単に吹き飛ぶ。

フロントガラスにひびが走る。白い小さな蜘蛛たちが四方に駆け巡る。

あと1分ほどで上りの電車がやってくる。

アクセルを踏む。

目一杯踏み込む。

ホームから線路に降りるのが難しい。

だがこれだって簡単だった。

かなりの段差はあったし、かなりの衝撃があったが、やってしまえば、やれるのだ。

 

初めて見る光景。

きっと世界中のバスの運転手の中で、こんな光景を見るのは私が初めてに違いない。バスの運転手でなくても私が初めてだろう。いやけっこういるのか。

 

遠くに電車が見える。

小さな丸い顔に黒く離れた目が両側についている。

後をうねうねと長い胴体が続いてくる。まだ若い蛇のようだ。

激しく警笛が鳴り響く。

私はアクセルを踏み込む。

私はバックミラ−の中の小さな彼女しか知らない。

彼女を私のバスに乗せたかった。

今そのことに気付いた。

 

振動が激しい。

金属の激しくきしむ音が鳴り響く。

 

 

 

私はそんな事を考えながら、バックミラ−の中の彼女を見る。

なぜ彼女はもう少し早起きができないのだろう。

なぜ私は時間通りにバスを出さなければならないのだろう。

 

私はギアを入れる。

 

 

2003.9.26