パサージュ−52 今日の夕方6時,誕生日のプレゼントが届けられる. そのプレゼントを開けたとたん爆発する. 今日中に開けなくてはならない。 そう連絡があった. 昨日の事だ. 妻も子もない. 恋人もいない. だから別に誰かに連絡をすることもなかった. そのまま寝た. 眠れた. 最後の夜だった. 別に何の夢も見ず,いつも通りに目が醒めた. いつも通りの朝だった. いつも通りに朝食を取り,会社には急に具合が悪くなったので,今日は休むと電話をした.20年勤めている会社だ.部下には報告は明日聞くからと言った.明日は,いない. 昼食もいつも通り,日曜日にする食事をした. 日曜の夜は少し金をかけ,自分で作る.その代わり昼は1週間に残ったものを整理する. 今日は木曜なので,残っていた野菜と肉を炒めてビールとともに食べた.量が少なかった. 夜の食事をどうするのか迷った. 食べたところで死ぬのだ. 酒でも飲もうと思ったがその時酔っているのはいやだった. 最後まで全てを見ていたい. 幾人も殺した. 脅しも盗みもした. 今回の仕事は死ぬことだ. 私がこの部屋で今日爆殺される事で何かの仕事が成就されるのだろう.仕事の内容は問うまい.今までもそうだった.これからもそうだ.ただこれからはない.今日が最後だ. 部屋を見渡す. いつも通りの場所にいつも通りのものがある. 例えば時計. テレビの上と,壁,玄関の3個所にある.秒針も合っている. 歯ブラシや髭剃り,皿やコップ,財布やネクタイ,スーツ,全てこの部屋の同じ場所に15年,ある. 誰か,会いたい人は? いなかった. それは確かに寂しかった. いや,いた. いたが,それはしょうがない事だった. 5時半. 日が暮れてきた.そろそろだ. 包みは普通に開けるのだ. 開けられるだろうか. 指がまず飛ぶ. 次に腕,いや顔面に来るだろう.目に突き刺さる.いやそんな暇はない.一気に首が飛ぶ.考えたり感じたりしている時間はないだろう. 開けた時に終わる. ピンポーン. いつも通りの音だ. のぞくと若い女が体からはみ出る四角い包みを持って立っている. 大きすぎるだろう.私は思わず笑った. ドアを開けた. 『お誕生日おめでとう』 落ち着いたしかし軽やかな声に少し驚いた. こんなサービスがあったのか. しかし女はそのまま包みを私に押し付けると中に入ってきた. 薄い緑のワンピースに濃い緑のエメラルドの首飾りが光っている. 背中も大きく開いている. きれいな背中だ. 配達員ではなかった. 女はソファに座り少し首を傾けて私を見た. ショートカットの細い毛先が顎の線に柔らかく沿って揺れている. 食事の用意も酒も無い. 女はじっと私を見ている.じっとだ. きれいな目だ.大きく澄んでいる. くるくると瞳の奥が動いている.様々な表情が浮かんでは消え,また生まれてくる.少しもじっとしていない.楽しい目だ.ホッとする.いつまでも見ていたい. だがそうもいかない.だがまだ時間はある.部屋に入ったという事はつまりしばらくは一緒に過ごしてもかまわないという事か. 『のどが渇いてるの.』 女が言った.私を見つめたまま。 『ビールならある.缶ビールだ.それも発泡酒だ.』 『いいわ.私も発泡酒は好き.』 女はそう言ってにっこり笑った. 素敵な笑顔だ.こぼれるような笑顔。 無防備で真直ぐな笑顔。 息苦しくなってくる.最後の日の思い出には最高だ. 私はビールの栓を開けグラスに入れテーブルに置いた. 女は首を少し傾けグラスを私に向けると一気に飲んだ. 細い喉が伸びた.ふーと肩を落とした. 今度は自分でついだ.そしてまた私を見て笑った. 『日曜日に初めて海に潜ったの.しばらく海に溶けてた. じっとしてた.黄色と青の小さな魚がつんつんお腹をつつくの. くすぐったくて目が覚めた.あなたは日曜日何してた?』 森にいた. 独り者の日曜日は午前中は掃除や洗濯でつぶれる. 午後は,森にいる. 車で20分ほど走るが,杉の森が広がっている. 公園ではない. といって3時間も歩けば抜けられる程の広さだ. ちょうど中央に小高い丘がありそこに幹の周りが10mを越える杉がある.その根はゴツゴツと盛り上がり交錯し,地上を遠くまで走っている. その中の太い根に座り時を過ごすのだ. 『森にいた.』 『森?』 『森だ.大きな杉の根っこに座っていた.』 女はくりくりとした目をさらに大きくした. 『海にも森があった.波に揺れていた.』 そうだ揺れていた. 近づく台風の風に森はゆっくり揺れていた.初めて見る光景だった.渦巻く風の音はしかしどこかのんびりとし,私は目を閉じてその音を聞いていた. 『海の森に風は吹くのか?』 私はごく自然に聞いた.こんな事は普段思いもしないし,思っても口にはしない. 『吹いてる. 潮の流れ.音もする.風の音と同じ. でももっと低くて響くの.心臓の音と響き合う. 自分が地球の心臓になったみたい.』 『私も座っていてそんな感じがした.私の心臓の音が木を伝わり,他の木々に移り広がっていく.』 私たちはしばらく黙っていた. それが苦には少しもならなかった. ふと我に返った.時計は8時を過ぎている. 私は言った. 『ありがとう.これから仕事がある.申し訳ないが,今日はこれで.』 女に立ち上がる気配は無い. 『申し訳ない.今日中にしなくてはならない仕事なんだ.』 『私もよ.』 女が言った. 『あなたとその箱を開けるの.私の最後の仕事.あなたもでしょうけど.』 むごい.まず私はそう思った. まだ若い子だ.23,4だろう.これから様々な事がある.むごすぎる. だが仕事だ. 仕事はしなくてはならない。 だがなぜこんな若い子に. 『生まれてきて良かったか?』 私は聞いた. 女は首を振った. きらきらと輝く目が不釣合いだった。 『でも最後があなたと一緒でよかった.』 『私と一緒で?』 『そう。日曜日を木の根っこに座って過ごす人って,嫌いじゃない.』 女はそう言うと,目を閉じた. 表情が和み,眼球が小刻みに動いている.呼吸がゆっくりと繰り返される.きっと海の中にいるのだ. 『黄色と青の魚がツンツンつついてるのか?』 私は聞いた. 女は小さく頷いた. 『開けて.』 女が言った. 私は包みを引き寄せた. 包みを開いた. ダンボールの箱. 開封する場所に大きな赤い矢印が描かれ,その横に笑い顔のキリンの絵がある.長い首が矢印と同じカーブを描いている. 『手を握らせてくれ.』 私の言葉に女はゆっくりと目を開け体を起こし腕を私に伸ばした。 細い腕だ. ゆっくりと指が伸びる. 私は女の左手を握った.暖かな手だ. 右手を赤い矢印に合わせた。 焦げた二本の握り合わされた腕。 それが焼け跡から明日の朝発見される。 女の目の中に動くものがある。 私だ。 私がそこにいる。 死ねない. 左手に力を入れた。女を引き寄せた。 女の目が大きく見開かれる。 こんな時にもきらきらと光っている。 死ねない. 生きるのだ.2人で. 十分に仕事はした. 命をかけ,くだらぬ仕事を. 女の目に私が映り,私の目の中に女がいた。 『逃げる。2人でだ。だが裏切り者が生延びた事はない。』 『私たちが最初の生延びた裏切りものになるのよ。』 女の胸のエメラルドが緑に光った。 私は立ち上がり女の腕を引き寄せ体を抱き寄せ思い切り抱きしめるとドアに向かった。 生延びてやる。 2人で。 視線の端を何かが動いた. ベランダを黒い猫が歩いている. 目が光る.初めて見る猫だ. 猫はくるりと向きを変え尾を振った。 私たちはドアには向かわずに窓を開けベランダに出た。 猫がさっと隣の家のベランダに移り,近くの木へ飛んだ。 私たちはそのあとを追った。 2001.9.24 |