パサージュ−45 朝6時半から7時半まで,私は近くの公園を走っている。 この20年変わらない。 仕事は中学校の事務をしている。 残業はあっても1時間ほど,入試時期になると忙しくはなるが,帰宅が10時を過ぎる事はめったにない。 夕食も中2と小6の娘達と一緒にできるし,食事の後妻とも色々話せる。11時に床に着き,6時に起き,6時半に公園に向かう。 中2の娘が最近時々一緒に走るようになった。 バレー部でレギュラーが取れそうなのだ。 スタミナを付ける為に走り込みが必要だと部活の先生に言われたらしい。 初めて一緒に走った時ドタドタと走る娘にちょっとびっくりした。最近は慣れたのか公園からの帰りは先に帰ってしまう。 週に2度は娘と走る。 実はこの1か月,ちょっと困っている。 公園にヘンな男がいるのだ。 20代後半だろうか,公園のコースの脇に咲く花の前で,いつもじっと花を見つめている。 花をただじっと身動き1つせずに見つめていて,時には微笑んでいたりもする。1,5キロのコースを3周するのだが,その間男は動かない。 娘は最初は気味悪がっていたが,その男が結構良い男でもあるからか,最近はいつもチラチラ男を見ながらすれ違う。 「パパ,花が大きくなってるの知ってる?」 娘が男とすれ違ってしばらくして言った。 大きくなってる? 私は意味がわからなかった。 「大きくって何が?」 「だから花。」 「花って,あの花か。」 「そお,あの花。」 花が大きくなっている。育っているということか。 私はよくわからなかった。 しばらくしてまた男の所へ来た。私は今度は男の視線の先の花を見た。 花は水仙の一種だろう,細く長い茎の先にラッパのように薄い黄色の花が大きく開いている。開いた花の底は赤く滲んでいて,それがまだ薄い黄色の花びらの外側から,朝の光に透けて見える。上下に緩やかにカーブを描いた花の直径は10センチ程だ。 男はその花びらの中をのぞくようにして体をやや前に倒し,じっと動かない。 花の大きさはそんなもんだと思ったし,大きくなっているといっても成長しているのだから,大きくはなっているはずだ。 「そりゃ,大きくはなるだろう。育ってるんだから。」 私は男からだいぶ離れた所で娘に言った。 「違うよ。この前はずっとちっちゃかった。」 娘は振り返って,男を見た。 5,6歩走って,また見た。 そして黙って,いつもよりうつむきかげんでペースを上げた。 3日後,土曜日,また娘と一緒に走った。 学校は休みで部活は午後からだった。 もっとゆっくり起きて走っても良い筈なのだが,娘は6時半に私と一緒に出た。 そして男はまたいつもの場所で花を見ていた。 一体こいつはどんな生活をしてるのだろう。 いつまで花を見ているのだろう。 当然私たちが走り終えた後,家に帰るなり,学校や会社に行っているはずだ。まさか1日ずっとここにいるわけではないだろう。 しかし男の佇まいからは,ここで昼を過ごし,夜もここに立ち続け,そのまま朝になり私たちがここに現れた時も立ち続け,花を見ている。そんな感じがした。 いや,それが何か1番しっくりする。 「ヘンよやっぱり。パパよく見て。」 私は男の視線の先の花を見た。 3日前より確かにかなり大きくなっている。 開いた花の直径は20センチは超えている,男の小さな頭が入りそうだ。 薄い黄色はそのままだが,花の底の赤が濃い。重たげにその赤が揺れている。 その花の周りには10近くの同じ花が真直ぐに咲いていて,風に揺れている。 しかしその花だけは風には揺れず,男に大きな花を向けている。男と花は向かい合ったまま動かない。 まるでじっと見詰め合っているようだ。 すっと伸びた茎が男にゆっくりと傾き始めた。 「花を見てるんじゃないの,花に見られてるの。」 娘がそう言った。 言った瞬間娘がダッシュした。 男は顔を寄せ,花はふーと大きく花開き,男の頭を花びらで包み込んだ。 男は体を前に投げ出し,花は男を吸い込もうと花びらを閉じ始めた。 その時娘が花の茎を勢い良く折った。 青草い臭いがした。 娘は花を槍でも投げるように空へ投げた。 朝の太陽に眩しく,空へ伸びる花のシルエットが一瞬だけ見えた。 池に落ちるかすかな音。 男のふりしぼる泣き声が後を追った。 倒れ号泣する男を娘が優しく抱きしめていた。 そんな娘を私は初めて見た。
2001.8.8
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