パサージュ−42 死者の魂はすぐに空には戻れない。 誰かがその魂の持ち主を思い,またその魂がこの地上の誰かを思った時,空へと昇る。 郊外のマンション,一人暮らしの初老の男,寝苦しい熱帯夜,男は一日の疲れに死体のように眠っている。 男は夢の中,赤い谷の底を彷徨っている。そこで飲んではいけない水を飲んだ。 干乾びて爛れ,足を引き摺っている。背中に背負った石は日々その重さを増している。 毒は胸を熱くし,石は背骨を砕き始めている。 男が赤い谷で探しているものは,緑の瞳の緑の葉を持つ小さな人だ。 その人と背中の石と緑の葉を交換する。その時石は消え胸の痛みも消える。 だが男にそれはあり得ない。 いないからだ。 その緑の葉を持つ小さな緑の瞳の人はこの星にはいない。 そしてそれに気付いた時男は崩れる。 崩れ,弾ける。 どうでもいいことだ。 死者の魂は男の夢の中を覗き込みながら思う。 ただ誰かを思う。 誰かに思われる。 その事は必要だ。でないと空へは帰れない。 父親が母親を殴った。 男の右腕の筋肉が盛り上がり,鉤型に動き,女の悲鳴が上がった。 部屋の隅の少年が壁に背中を押し付ける。壁に体が食い込んでいく。 その月の最後の日曜日。 一家は車で3時間のピクニックランドに行った。 緑の広い芝生。 父親が少年を肩車した。 少年が父親を追いかけた。 母親はそれを写真に撮った。 今度はセルフシャッターで3人が並んだ。 カメラを芝生に置いた。 3人はかたまり,緑の芝生に伏せた。 シャッターの音が響く直前,少年は立ち上がり手を広げカメラに向かって大きな笑顔で走った。 翌月両親は離婚した。 学校で少年は家族の絵を書いた。 白い画用紙には3人の緑の小さな人が描かれていた。 死者の魂は少年の過ごすこれからの日々を思った。 そして男の夢の片隅に緑の小さな人を置いた。 死者の魂は男を思った。 誰かが自分を思ってくれるか? 無いと思う。 自分はこの地に縛られたまま漂うのだ。 その時東の小さな島に死者の魂のなる木があると細い声が流れた。 2001.7.31 |