パサージュ-88

 

 ぼくの飼っている蛇がね、時々すっと立ち上がってこれくらい飛び上がるの。」

そういって両手を肩幅に開いた。

 

「これくらいの小さな蛇だからね、自分の体と同じくらい飛び上がるんだ。」

 

それだけ言うとまた今日の課題の分数の計算に戻った。

 

塾の最初のこまだ。生徒は全部で6人。小学2年生と3年生。

彼は3年生だ。学校ではいじめられている。母親との面談ではいつもそれが話題になる。学校ではいじめはないと言っている。だがいじめている子の母親とこの母親とは知り合いで、互いに子供たちが何を学校でしているのかは知っていて、それなりに冷静に互いの状況を知らせあい、学校のいい加減さをいつもここでぶちまける。

いじめている生徒の親もこの塾に来ている。生徒本人は来ていないがその子の兄貴が来ている。兄貴は4年生でまるで大人しく、友達もいず、学校では孤立しているらしい。ただ絵が異常にうまく、絵をみんなから毎日頼まれ、いじめられることは無い。

だが、ほとんど誰とも口はきかず、それが母親の悩みだった。

もっとも塾では普通に話した。

彼に蛇の話をしたらまっすぐに空にジャンプする蛇の絵をすぐに描いてくれた。

ぴょんと飛び上がる蛇ではなく、どこまでも空を飛んでいく、竜にも似た蛇の絵だった。ぼくは感心しその絵をくれといったが、色を塗ってからといって丁寧に紙を折りかばんに入れた。それからもう2週間たつ。

 

 

「蛇飛んでる?」

ぼくは聞いてみた。

「死んじゃった。」

 

小さな声で答えた。

 

ぼくは分数の丸つけをしながら、4年生の子の蛇の絵を思い浮かべた。

 

「きっと竜になったんだよ。」

「うそだ。だらんてして、ぶらぶらして、動かない。」

 

一滴だけ涙がノートに落ちた。

一度だけ鼻をすすって、返された分数問題の直しに入った。

 

 

体を机に小さく固め、手だけが細かく動き、ノートの上を動いている。

ドアが開き次の授業の生徒が入ってきた。

個別形態の塾なので、全員が一斉に終わり一斉に授業が始まるということはあまりない。

終わった子から出て行き、次の時間の生徒も入ってきたら好きな所に座り今日の課題を自分からどんどんと進めていく。

 

 

「これ。」

例の絵のうまい4年生が半分に折った紙をぼくに差し出した。

背が青く腹の白い赤い舌をしたの竜の絵だ。

鱗がびっしりと細かくひげが細く長く描かれている。綺麗だ。

口を大きく開け、目は大きく、空へと向けロケットのように真っ直ぐに飛び上がっていく。

 

「もらっていい?」

ぼくが言うと彼は少し口を尖らせて首をかくんと前に動かした。

「他の子にあげてもいい?」

またかくんと首を傾けた。

 

 

直した分数のノートを3年生が持ってきた。

今度は合っている。

まだ涙のしみが残っている。

丸をつけて、ほら、と竜の絵を差し出した。

 

あげるよ。あそこの兄ちゃんが描いたんだ。君の話を聞いてさ。

 

彼は何も言わずふんと鼻を鳴らした。

「けっこうカッコいいだろ。なかなかの竜だ。」

 

受け取らないと思ったが、ちょと絵を眺めて乱暴にひったくった。

何も言わず帰り支度をすると、今日の勉強と宿題を計画ノートに書き、そのノートの間に竜の絵を挟むと、小さな声でさよならといって教室を出て行った。

 

「今の子に竜あげたよ。ありがとだって。」

 

その子も何も言わず、今日の課題に向き合っている。

 

きっと蛇は竜になったのだろう。そして今も空を飛んでいるのだ。それくらいのことは思ってもいいと思った。

 

2010年3月1日