パサ-ジュ-87

 

 どこかで誰かが歌っている。朝の6時だ。僕はまだ目を開けない。ぐっと伸びをする。いい感じで体が伸びる。顔だけ窓に向ける。少しだけ明るい。顔も温かい。

 

子供だ。まだ小学校の1年か2年生の女の子だ。アニメの歌だ。といっても最近のアニメソングは普通の歌と変わらない。普通にアイドルやアーティストが歌っている。だから歌は難しい。でもその子は上手に歌っている。

向かいのマンションの上の方からだ。それもきっとベランダに出て空を見上げながら歌っているのだ。声はまっすぐに空へ向かっている。

 

僕は目を開けてカーテンを引き窓を開ける。

でも外は雨が降っている。昨日の夜からだ。

どんよりと雲は厚い。でも雨のにおいは好きだ。

 

傘をさして外へでた。

いつもの爺さんが首にぐるりと巻いた鍵の首飾りをジャラジャラさせながら体を左右に振って歩いてくる。

初めて会ったのは、10年以上も前だ。そのころは頭はもっと黒く、歩きながら独り言を大声で言っていた。

 

 

動かない牛にはほんとの影が無い。よく見てみな。影と牛は別々の動きをしてる。影の中の牛には三匹のサルが乗っている。首と背と尻尾の三ヶ所にぶら下がってる。

牛の左の耳を撫でてやると牛は喜んで大声で鳴き、サルはびっくりして落ちる。

地面から飛び出てきたサルのケツは真っ赤さ。

  

そ 

そ  そう言って、尻を突き出してポンポンとたたく。人通りが多い街中でも平気で尻を突き出してポンポンとたたく。真剣な顔をしてだ。

 

 

 

 

10年たった今は、尻は叩かない。だが牛の話は多少声は小さくはなったものの相変わらず続けている。

 

あと森の一番高い木にしがみついている蛇の話もある。

蛇はこずえに体を巻きつけて自分が鳥になって空を飛んでいる夢を見ているのだ。それで満月の夜月に向けて体を伸ばし梢は7.80cmほど伸びる。そのときじいさんは立ち止まり両手をまっすぐに上に伸ばし、体を細くし顔を上げ、背伸びをする。竜じゃ竜じゃ。じいさんをそういってとととっと、3,4歩前のめりに歩く。

 

 

そういえばこの何年も体を伸ばすじいさんを見ていない。

 

 

鍵の首飾りは変わっていない。つばを吐きながらうつむきながら歩いてくる。

 

じいさんの家は僕の家の近くだ。それは去年知った。

小さな家だ。一人暮らしのようだ。鍵をかけていた。鍵はドアの上と真ん中と下にそれぞれ2個あり、窓にも合った。全部で12箇所あった。だから首飾りになったのだ。

 

「兄ちゃんよ。」

じいさんが声をかけてきた。

僕は驚いた。

これまでにも何回かすれ違ってきた。いや回数にしてみれば、1週間に2,3回。月に10回ほど。年に100回とすればこれまで1000回はすれ違っている。

まともに顔を合わせるのは今日が初めてだ。

 

「兄ちゃんよ。」

 

僕ははいと言った。

「傘あるかい。これからちょっと遠くまで行くんだよ。傘貸してくんないか。」

 

僕は持っていた傘を差し出した。

「悪いね。兄ちゃん。」

 

じいさんはそう言うと、傘をさしてうつむきながら、体を左右に揺らせ去っていった。

 

 

見えなくなるまで僕はじっと立っていた。

滴が目に落ちてきた。

 

じいさんの声は思っていたよりも低くよく響いた。

「兄ちゃんよ。」

 

耳にその声が響いた。まだ残っている。

 

「兄ちゃんよ。」

 

ぼくは何回か声に出していってみた。兄ちゃんよ。

 

 

じいさんはどこに行くのだろう。

牛に会いに行くのだ。

耳を撫でに行くのだ。

牛もじいさんを待っているのだろう。

 

 

ぼくは傘を取りにうちに戻った。

まだ女の子は歌を歌っている。

きっともうすぐ雨はやむ。

 

ぼくは両手を真上に伸ばし体を細くし顔を上げ目を閉じ深呼吸した。

 

2010.3.1