溺れる魚 制服フェチで女装盗癖のある警官、刑事であることを利用しヤクザを殺しヤクザから金をくすねる刑事. 2人は自分達のマイナスポイントをチャラにする事を条件に、警察内部の不正を調査させられる. ところが黒幕は実は調査させた当人の警察トップ. それに会社を強請る美少年がからみ、この美少年とその黒幕トップとが関係があるのだ. 美少年は子供のころ家族全員を通り魔に惨殺される.その通り魔がそのトップなのだ. ストーリーに新味はない.テレビで見たことがある展開だ.あきもしないが驚きもない. 椎名吉平と窪塚洋介の絡みはいい. 「傷だらけの天使」の「兄貴」と「あきら」から屈折や哀しみを抜いたらこんな感じだろう. 屈託の無さが、世間からずれている哀しみをおかしみとし、椎名と窪塚の一つ一つの仕草や言葉に笑えはする. 宍戸錠の撃つ銃弾は赤い炎をひき三段跳びで敵に当たり、ラストシーンでは次回作に頭をひねる作者が登場し、打ち上げパーティーに出ず帰っていく椎名を呼び止める窪塚の声が真っ暗な画面にかぶり、映画は終わる. 映画に何ができる? 何もできない. 何かができると思い上がった映画、映画を信じる脳天気な映画人、映画から何かを求めようとする素朴な観客、それらを裏切る事で自分の存立を確保しようとする監督の意志は見える. 監督は言う. 映画には意味は無い、映画は何もできない、映画など信じていない、映画から何も求めようとするな. しょせん、このあたりが映画よ. ちょっと笑って、帰ってね.それで十分.それが映画.ちょっと高い? いいのいいの.映画なんてそんなもんよ. そしてそんな居直りの哀しさに正しさの証明を見ようとする だが監督の潔くはあるが、それだけに立ち止まり居直った姿勢に、溜息が止まらないのだ. あのね. それってもう終わったの. それって、この20年くらいずっとそうだったの. もう見たくないのね.そういうの. 飽きちゃった. 古いの. だから映画をもう一度信じろではない. フィクションはフィクションだ. アクションだろうが、シリアスだろうが、何だろうが、映画の中で人が死ぬはずは無い.人がホントに泣いているわけではない.ハイ、カァ〜ト!で役者は生き返り、笑うのだ. そこだ原点だ. それに今という状況がかぶさる. だれも現実を直視できない. そこにこれまで見た映画やテレビやマスコミで流されてきた映像がかぶさってしまうのだ. よくある映画やテレビのセリフ、「これって映画みたい」、「テレビドラマじゃないんだから.」 相対化することでしか自分を支えられない. 支える棒は実に細く頼りなくもろい. さらにその上に本来の状況がかぶさる.その人の個人的な癖、習慣、さらに慣習、生まれ育った地域、国の伝統、時代と地域の枠. 人は現実を直視する事などできはしない. 人が違えば見える風景も音も違ってくるのだ. だがここで確かめたい. はっきりと言い、感じておきたい. だがしかし、当然の事だが、現実は一つなのだ. 100人いるから100の現実があるのではない. そうではないのだ. 目の前の現実はいつも一つの事しか言ってはいない. 一つの姿しか見せていないのだ. このことを実感しなければならない. それを見、聞くためには、覆い被さるそれら全てを相対化しなければならない. 振るい落とすのだ. 悪魔払いだ. その方法としパロディがあり、意味や価値を無視し笑い飛ばす方法があったが、それで終わってしまっている.そのあとがない. こんな映画を作っている場合ではないのだ. 繰り返すがだからテーマを持ったメッセージのこもった熱く重い映画を作れなどと言っているのではない. それはさらに腐臭漂う邪魔なだけの映画だ. 現実はただ一つの姿しか見せていない. 現実はただ一つの声しか上げていない. それを見、聞く努力. その方法として映画を選んだかどうかが始まりだ. 2002.1.30 |