ニンゲン合格 2003.5.10 主人公は14歳で交通事故に遭い昏睡状態に陥り,24歳で奇跡的に意識を取り戻し家族のもとへと帰る. だがそこに家族はなかった. 父親は宗教に走り息子を育てる気はなく,母親は離婚,独立. 妹はつまらぬ男と離れられず親の財産を目当てにし,家では父の友人が釣堀屋をしている. 彼はそんなバラバラになった家族を取り戻そうとする. しかし彼の試みは実現しないまま,事故であっけなく死ぬ. 家族復活の物語だ. そしてそれはかなわない. こういう映画はまず見ていてはらはらする. 奇跡的に生き返った息子を中心にして家族が簡単に修復されてしまうのではないかと,はらはらするのだ. 戦後,日本の家族はゆっくりと解体していった. 天皇制の中の家父長制と教育勅語から,アメリカ民主主義へと突然転換したあと,人々は経済復興のための会社中心主義へとエネルギーの向きを変えた.価値基準の転換,消滅のあとの判断停止状態の空虚を,物の復活へ邁進する事で埋めようとした. 昭和20年以後,親となるべき価値基準を失ったまま,人は親になっていった.いかに大量に効率よく物を作っていくか.それが親たちの目的だった. 会社のために彼らは懸命に働いた. 部屋の中には失われた物が戻ってきた.そして親は子に,いい会社に入りいい給料をもらうために,学校ではいい点数を取ることを求めた. 人としてのあり方や生き方は給料の額の前では問題にされなかった. せいぜい,人に迷惑をかけない,あとは自分の責任でがんばれ. それ以上のことは言えないまま,それでも家庭の中に新しい物が増えている間は親も子も満足していた. だが一通りの衣食住が行き渡り,何のために人は生まれ,どう生き,どう死んでいくかが問題になり始めた時から,親は子にかける言葉の無い事に気付いた. 子供たちは反乱を起こした. 経済優先の効率主義を批判した.だが新しい価値基準を作ることはできなかった.そういう教育を受けてはいなかったからだ.彼らが行ったのは価値の相対化だった. 絶対の価値などない,全てが同じ.これも良い,あれも良い.全部同じ. もともと価値基準を持っていなかった空虚を,価値の相対化という価値基準で埋めようとしたのだ. 彼らはそれまでの価値を否定はしたが新しい価値を築きはしなかった.そんな彼らが親になった. 戦後の空虚の中で育った親に育てられ,価値の相対化の波に沈んだ彼らに,子供を育てる方法も目的もなかった. 親となる資格のない2つの世代が日本で進んだのだ. 物を生産することで空虚を埋めた世代と,物と情報を消費する事で空虚を埋めた世代. そして生まれたのが,この映画の主人公だ. 支え,目標とする価値もなく,物の生産にも消費にも空虚を埋める事のできない彼ら. 彼らは埋めるべき空虚すらない. だから当然彼にも復活すべき家族などない.望むべき家族の姿など見たことはない.取り戻そうにも取り戻すべき家族そのものが最初からなかったのだ. 彼の淡々とした表情は,もともと家族の中での喜怒哀楽を持てなかったことによる. 体は24歳,心は14歳ということで,14歳の心を何か純粋なものと考えるのはまちがっている.空虚には世界の全てが流れ込んでくる.情報化社会ではいいも悪いも同時に流れ込んでくる.いや善や正しさの基準を欠いている社会では,ただ刺激の強いものばかりが,氾濫していく. だから彼らの心には表より裏,善より悪,正しさより不正,光より闇が際限もなく流し込まれていく. 彼らは人の悪を自分の心の中ですでに経験してしまっている. 彼らの心は大人が思っている以上にズタズタなのだ. それが世紀末から現在の14歳の心の在り様だ. だから奇跡的に蘇った彼はそれを喜ぶことができない. 彼の淡々とした表情の原因はそこにもある. 生き返りたくなどなかったのだ. 死んでいたかった. 望む家族も,望む生き方も持てないのなら,死んでいたかった. それが主人公の心の在り様だったのだ. そしてだからこそ,この映画は感動的なのだ. そんな彼が同窓会を企画し実現させる. 放棄された牧場の再建を実行する. 彼にはそうした人とのつながり望んだり期待したりする気持ちの土台からして,ないのだ. だが彼は家族の復活を目指す. なぜか? 胎児の記憶. としか言いようがない. 生まれ,物心がついてしまえば,生れた事を悔いるしかない. 死ぬことを願うばかりだ.役所孝司に現実に向き合わされるたびに,しゃがみ込んで子供のように拒否する姿は,そのことを暗に示していると思う. 胎児の記憶. 命として生まれたが,まだ個体としては生まれていない. 父の精子と母の卵子. 父と母への原初の思い. それが彼に家族復活への思いを抱かせたのか. 悲しい. 両親はいても,家族はあっても,彼は両親も家族も知らない. にもかかわらず彼は家族を復活させようとするのだ. 父と並んで歩く.競うように歩く. 父と並んで走る.全力で競いながら走る. あまりに無意味で無目的な行為. だが親と子は反対方向には向かわない. それだけでも感動的なシーンなのだ. 生きる目的も支えも教える事をしなかった親と,だから生きることを願わない子供が,しかし並んで歩き,走っている. それも懸命にだ.親は子を捨て,子は親を殺すことがあるべき結果であるにもかかわらずなのにだ. だからTVの中の父と,TVの前の母と妹と主人公は,今この時代の日本の中で考えられる最も感動的な家族の姿なのだ. 「オレ,存在した?」 彼に限らず,戦後3代目の日本人にとって切実な問いだ. 生きる理由も生きる力もないままに生まれた世代だ. 存在感のないままに生きた彼には,蘇ったこの現実も夢にしか感じられない. あっけなく死んだ彼を見送ったあと,家族と彼と関わりのあった者たちはみな同じ方向をじっと見つめ佇む. 彼らも彼と同様,生きる理由も生きる力もない日本人たちだ. しかし彼らは直ぐにはばらばらに散ってはいかない. ほんの1分ほどの間,この日本でこれから生きていく理由と目的について,無意識のうちに思いを凝らしたにちがいない. もちろんその後みんなそれぞれの空虚の穴の中へと帰っていくが,その帰るわずかの間彼を仲立ちをとして同じ時間と空間を共にしたのだ. その事もまた今の時代のこの日本を考えた時,感動的なことなのだ. ぼくたち日本人がこの程度のつながりに感動を覚えるしかない状況にいる事を静かに語り,新しい一歩を提示した黒沢清に,これからを期待したいとぼくは思う. |