モザイク 田口ランディ 2003.6.10 田口ランディの盗作疑惑をネットで見た. ネットでは田口の作品と元ネタとを並べ,同じではないかといっている. 似た文章や似た状況がそこにはかかれてあり,それだけを言えば,パクったといえなくもない. このモザイクでも古武道をやっている主人公,佐藤ミミの言葉で, 「男の看護士が手に負えないような錯乱患者を簡単に鎮めると評判になった.一体どこにそんな力があるのか?と.重いコートも着れば軽いのと同じ原理だ,と私は説明した.」 これは武術家の甲野善紀と養老孟司との対談「自分の頭と体で考える」で甲野が話している言葉だ.アリの8割の話もここにある. それは巻末の参考文献にあり問題はない. さらに幾人もの作家の文章との類似が指摘されていた。 確かに使われている言葉、文章、プロットに類似点はある。だがそこを見て「盗作」、でもないようだ。寧ろそれらは彼女独自の作品を作り上げていく際のモザイクとでもいうものだろう。 もちろん自分独自の作品を作り上げて行く際に、その部分部分を既に書かれている他人の文章から、ちょうど自分の作品に合うものがあったからと言って、借りてきてしまうという態度には、当然問題がある。 手を抜いて、勝手に人の文章を使ったのだから。 また彼女の中にもしかつて自分が読み、感動し、自分の血肉になり、無意識にまで降り、自分の根を作り大本の力となったそれら他者の文章が、創造の過程で自然と浮上してきたものなのだから、自分の責任ではない、という感覚があったとすれば、それはプロとしての自覚と、作家としての厳しさを欠くことになる。 作家は書かされてはいけないからだ。時代の圧力に抗する事ができず人は書くことから逃れられなくなるが、何が自分を書くことに追いやっているのかには100%の自覚を持っていなければならないと思う。可能不可能を別にしてだ。これほど巧妙な高度情報化社会の渦巻きの中で、自分を動かす力が何なのかを見続ける事はとても難しい。だがその絶え間のない目配りを忘れてしまうと独善や神秘主義に陥ってしまう。田口ランディはその境界線にいる作家だと思う。 創造の過程には責任の取りようがないと、もし彼女が思っているのなら、それは危険な感覚になる。なぜなら創造の過程には当然悪意のもの、邪悪なものも流れ込んでくるからだ。人間は汚物や穢れもこよなく愛す。 自然の流れに任すことは難しいのだ。自然は当然闇をも含んでいる。 そして問題はそうしてできた作品全体が盗作といえるかどうかという事だ。 やはり出来上がった作品はどれも彼女独自のオリジナルになっている。 そこを区別する必要があると思うのだ。 またもう一ついえば,完全なオリジナルというものなどない. すでに星の数ほど文豪も哲学者も思想家もライターもいるのだ.部分が似ていたからといってとがめる事もない.材料として扱われたそれらが,その作品の中でどう連携をとり深め,深く根を張り立ち上がっていくかという事がオリジナルという事だ. その点で,田口の作品に問題はない. 例えばこの3部作だ. 思うのだが,普通3部作などと銘打ったなら,もう少し話に発展があってもいいはずなのだが,それがない. この3部作では,原初の目で原初の世界を見る事ができ,その結果,世界全体,人や物の心,感情,記憶,を感じる事ができるようになった人間の恐れや不安,錯乱と諦め,が,繰り返し書かれる. 世界と同調し人や物の記憶や心が読める人間を小説の主人公に選んでそれを3部作にしたのなら,普通第2部,3部では次第に超能力者 vs 世間,社会,国家,別の超能力者となっていく. だがそれを禁じ,繰り返しその力の不安と錯乱を描いていく事にぼくは作者の誠実と責任とを感じる. そしてこのモザイクではしかし,3部作の最後らしく一歩踏み出し,希望が描かれたのだ. 「モザイク」でも「コンセント」で兄を失った朝倉ユキ「アンテナ」で妹を失った祐一郎と同様,世界と強制的に同調し錯乱する少年が出てくる.この3者は同じレベル同じ方向性を持っているといっていい. 前作と違うのは彼らとは違う場所から出てき,彼らと方向は同じにしながらも違う力を持った人間がここで登場した事だ. 佐藤ミミ. 彼女も同様に人の心や記憶を感じる事ができる. だが彼女に錯乱はない.そこが前作登場人物たちとの大きな違いだ. 世界と同調し,宇宙を見たという少年は彼女といる事で錯乱から逃れられる.別の登場人物はこう言う. 「あんたみたいなアースがいれば,彼らはけっこうがんばれる.あんたはまさにアース,大地だわね.」 彼女の看護士時代の上司はこう言う. 「お前の中に入り口と出口とがあって,常に一定量の水が入り込み,流れ出ている.お前の中の水はいつも新しく,流れていて,しかも溢れる事はない.氾濫することも,枯渇する事もない.」 ここにヒントがあるのだ.あえてヒントといいたい.ぼくたちは進化しなければならない.そのためのヒントだ. ミミは特殊な幼年期を送った. 父はミミが生まれる直前に死んだ.母はミミが4歳のときに死んだ. その後,古武道の達人の祖父に育てられた. その祖父の言葉だ. 「肝心なのは見ることだ.状況をじっと見る.それだけでいい.ただ見る.さらに見る.そうすれば自分を取り巻く空間の相が読める.それは何と言うのかな,流動的な磁場のようなものだ.見えないものが見える.存在しないが,感じるものだ.じっと見ることで何かが身体の中に生まれてくる.それを待て.よく見てさえいれば場が全てを教えてくれる.」 これは実に重要な言葉だ. 空間の相. 流動的な磁場. これをぼくらは実感できない.言葉で遮断してしまう.致命的だ. 人がそこにいる.生きている生物がいるのだ,そこにエネルギーが働いているのは当然の事だ.さらにそこにいる生物が何かを思う.怒る.悲しむ.苛立つ.むかつく.その時に大きなエネルギーが起きる.それも当然の事だ. ムカツク奴の言葉にムカツク.1日,それで気持ちが優れなかったなら,それはその気持ちが気持ちを遮断する物理的な力を持っていたことを示している. であれば,気持ちは物理的な力を持っている. これは当たり前に,そのまま信じていい事なのだ. 思いは物理的なエネルギーをもつ. ふつう我々はその感情のエネルギーに囚われる.だから毎日が生きづらい.それで死ぬ事を考えたり実際死んだりする. ミミはその感情のエネルギーに囚われないのだ. その為の方法として,「見ること」が言われる. 起きている事を見る.ただ見る.そこに解釈を入れない.言葉にしない.した時に起きている事は消える.目から消えてしまう. ミミは言う. 「私はね,時々,言葉を聞いていると意味が抜けてしまうの.音楽みたいな感じ.サウンドって自分では呼んでいるのだけど.そのサウンドを聴いていると,その人の心にあるイメージみたいなものが伝わってくる.」 起きている事のエネルギーを感じている時,物と事は見える. そして見えた物事をためない.流す.それが一番大事なことなのだろう. 「流す」 どこからどこへ. 天から体,そして地へと. それが巡る. 小さな個体での巡りが,他の個体と連動し,さらに個を作る全体と共鳴する. その時の個がモザイクなのだろう. 大きな絵を作る一枚一枚のモザイク. それがなければ絵は完成しない.一枚一枚が意味と役割を持つ.部分であり全体である関係. この地球で人間だけが,個を意識する意識と知恵を持ったことから命の連鎖からはみ出ている.他の生物はこの意識のない代わりに本能で繋がりあっている.もう一度人間もこの生物としての本能を取り戻さなければならない. 人類が発生以来持ってしまった習慣やくせ,産業革命後の科学の発展による同時大量情報の侵攻.それらに洗脳された頭を1度リセットしなければ心と体は本来の機能を果たさない.何かを考えたり決めたりする時には頭と心と体の3つが機能しなければならないのだが,それが今できていない.さらにインターネット等による,情報革命が拍車をかける. ますます自意識だけが肥大し,部分である自分しか,あるいはすら,感じられない. 絵を作る他のモザイクをどう感じとるか,モザイクが作る全体をどう感じとるか,それが今の最大のテーマなのだ. その為の方法論として,古武道が出てきたのは興味深い. ただ見る.何ものにも犯されていない目で,生まれつつある世界を見る.そこに脱出の可能性があるのだ. 場のエネルギーを感じとること. その人が何を言っているのかではなく,何を発生させているのかを観取する. そこで大切な事はおそらく「会う」ことだろう. それもただ会うのではない.「仲よく」なるのだ. 祖父は強くなるためにミミにこう言う. 「ミミ,強くなろうと思ったら,本当に仲良くする事を知ればいい.本当に仲よくする,仲よくなるとは,具体的にどんな事か考えてごらん.相手と一体になる.相手の立場に立つ.文字通り相手と同じに感じ,同じ気持ちになる.相手になりきる.常に相手の気持ちを大切に扱う事ができれば,捨てた己の分だけお前は強くなるだろう.」 損得と自意識にまみれた我々にとって最も困難な事だろう. そしてもう一つ. ミミの世界に対する感覚も重要だ. ミミはノストラダムスの予言を信じていた. 世界は突然崩壊する. それは父を母を祖父を祖母をある日突然失った事から来る. そこからミミは将来を,信じない. 10年後の自分,老人となった自分を思い描けない. 今この時しか,見ないのだ. だがその事で今が見える.今起きている事に意識を集中する事ができる.それが「見る」ための条件だ. だがいずれにしても困難な事だ. 人と「会えない」人が増えている.自分も人も憎んでいる.生きている事が苦痛だ.自分など生きている理由は虫ほどもないと感じている. 世界は壊れてしまえばいい.みんな死んでしまえばいい.そう考え感じている人が増えている. だがそれは裏腹なのだ. 憎しみを知る人間にしか人は愛せない.彼らこそ世界を回復する権利と義務を持つ. 彼らが出会い,仲良くなった時,真に新しい力が発生するのに違いない,と思う だがそれが可能なのか. 人と会えない人がどう人と会うのか. 会うことの困難がまた襲いかかって来る. だがここでもう一つ重要な言葉が語られる. ミミの父親の言葉だ. 「ミミ,お前にこの名前をつけた.ミミとは聴く者という思いを込めた.もしお前を前にして語りだす人がいたら,どうかその人の言葉をただ聞いておくれ.受け止める事はとても簡単な当たり前の行為のように思うかもしれないけれど,目の前にいる誰かを,ただありのままに受け止める事はとても難しいのだ.何もしなくても,ただ誰かの介添えとして,そっとそばにいてあげることができる力だ.そのような力こそ,本当はこの世界を支えている大地だと父さんは思うのだ.聴き続けることはとても辛いことだ.誰かの悲しみを背負ってしまう事もある. だが,聴く者を失う事は語る者を失う事でもある. だからどうかお前は世界の言葉に耳を傾ける勇気を持ってほしい.」 聴く力. これは大きな言葉だ. 聴く力. 何かを発信する事ばかりにエネルギーを向けるのではなく,聴くこと. それが世界のバランスとる. 話したい人で世界は混乱している.だれも話を聞いてくれないと鬱の感情をうねらせている人で世界は満ちている.表現し認められたいとうずうずしている人だらけだ. そんな人たちでも,目の前で語りだしたら,聴くのだ. たとえ聴く人が話す人の感情のゴミ捨て場になったとしても,聴くのだ. 耐えられない.話した人はすっきりとし,感謝もせず去って行く.聴く人はいつも貧乏くじだ.そう思っても聴くのだ. だからそれを流す.入った量の感情のエネルギーをそのまま出していく.ただ見る.解釈を与えない.そして聴く. その事が何よりも大事なのだ.そこから出会いが生まれる.新しい力が生まれる. 言葉や意味ではなく,見,聴く. その後は体に任す. 意識の記憶はたかだがその人の生きた時間分しかなく,しかも文化や習慣,時代,個人の癖で洗脳を受けている. だが体は何十億年もの記憶を持っているのだ. その体に任す. 意味と解釈への欲望を捨てた時,人の体は生きるエネルギーの通過点となる.小さな1本の筒となる.そこを風が吹きすぎていく.鳥の声が通り過ぎていく.陽の光が差し込んでくる.人の悲しみや喜びが通り過ぎていく. 宙空の竹の筒. 全てがそこを通りすぎていく.何も滞らず,邪魔をしない.命は正しいありようで生きていく.次に何をすればいいのかを思うこともない.体が教えてくれる.時と場所を教えてくれる.必要な時と場所へと導いてくれる. そのことを信じなくてはならないのだろう. 空に浮かぶ一本の筒. それがモザイクだ. 「本当は怖がる事なんてなかったんだ.うまくやれる.きっと.でたらめでいいじゃない.毎日価値を作って,毎日壊せばいい.毎日新しく関係して,毎日別れればいい.何をやっても調和している.だって,世界はモザイクなんだから.」 ミミの言葉で「モザイク」は終わる. 3部作の最後にふさわしい言葉だと思う. 盗作云々もない. しばらくは田口ランディの本を追いかけてみたい. |