殺しあいの本能と生かしあいの本能の間で. 20世紀は「戦争の世紀」だった.二つの世界大戦、日本も、日露、日中、日米戦争、世界大戦と殺しあいに参加した. だが殺し合いは戦争ばかりではない.新聞を見れば殺人事件のない日などない.見知らぬ人間を殺し、親を殺し子を殺し、友だちを殺し、自分自身を殺している. いつでもどこででも人は人を殺している. 人々は毎日殺しあっているのだ. ライオンやハイエナ、鳥や魚、肉食の動物でさえ空腹を満たせばそれ以上の殺しあいはしない. 感情から殺しあうことはないのだ.憎いからあの鹿を殺す.憎いからこのウサギを殺すということはない.人間だけが憎しみの感情から殺しあう. 反戦を叫び、平和を望み、人は戦い、殺しあう. 敵国の旗を燃やす顔、反戦をアピールする顔にさえ、殴りあいへと、殺しあいへと続く憎しみの感情が深く覆っているのが見える. 反戦と平和を望んで人々は殺しあいを続けてきた.これはどうしようもない事実だ.有史以来続いてきた厳然たる事実だ. 人々は死を悲しみ殺しあいを愚かだと思いながらも毎日殺しあっている.曲げようのない事実なのだ.殺しあいは人類の本能なのだ. だが同時に生かしあいの本能もある.その二つの本能のせめぎあいの中にいるのが人間なのだろう.その事を絶えず自覚する事が大事だ.そしてそれを阻むのが憎しみの感情だ. 宗教のことを言いたいのではない.すぐに組織立てることを望む宗教は宗教でない. 平和を願い行動することこそ必要なことなのだが、その時の感情に濁りがないか、憎しみの感情に汚染されてはいないか.その意識を欠いていればすぐに誰かに利用される.そして煽られ、殺しあいに引き込まれる.もともと殺しあいは本能だから簡単なことだ. 行動の前に、行動の最中に、感情が憎しみに汚されていないかを意識すること. その事が何よりも大事だと思う.人は平和を望みながら殺しあってきたのだから. 2003.3.21 |