コンセント 田口ランディ 2003.6.1 「コンセント」とは何を意味するのか. 最終章でこう書かれている. ◎「コンセント」にとっては,親も兄弟もみんな侵入者になる.身近な人間の感情に感応してしまうのだ.「コンセント」は他者の感情に翻弄されて生きている.誰のせいでもない.感応しやすい体質に生まれているのだから,しょうがない.だが,本来の「コンセント」は類い稀なる世界との感応力を持つシャーマンなのだ.(略) 自我がひ弱な「コンセント」は狂人にされていく.(略) 「コンセント」はその性質からトランス状態になったり,キレたりすることも多い.危ない人間だ.およそ理解され難い.だが,覚醒した「コンセント」が持つ感応力は,人間のトラウマを瞬時に癒すほどの力を持つ. 他者の感情に翻弄され,自我のひ弱な,切れやすい人間. それが中心を失った時の「コンセント」だ.つまり今現在,この日本で多く見られるようになった人間たちのことだ. ではなぜ主人公の兄は,あるいは日本人の多くは「コンセント」になってしまったのか. 兄の生きた時代を考えてみたい. ◎価値の相対化の中では,論理は空転する.どこへも行き着かない. 確かなのは感覚や感情になる. だが戦後マスコミ,テレビによる欲望の喚起により,この国に生きるぼくたちの感覚と感情は一方向のみの刺激を延々と受け続け麻痺させられ,その結果ぼくたちは判断能力のない刺激に反応するだけの生物になった. 敗戦後の日本を復活させるためには敷かれた資本主義のレールを突っ走る事しか選択肢がなかったのだから,物を作り売り買うためのシステムにテレビを用いての全国民の欲望の統一と喚起,熱狂,その持続は必要ではあったのだが,そのつけは大きかった. ◎人の生き方は人一人ずつ異なる. 何を良しとし何を好み何を嫌うかは人一人ずつ異なる. だがテレビはそれを拒否する. 多くの物を一斉に作り上げ,それをまた一斉に売るためには,同じ価値観を持った大勢の人間がいなければならない.テレビでこの車はいい,このテレビはいい,この冷蔵庫はいい,このエアコンはいいと流したなら,みんなが足並みそろえてそれらを買っていかなくては、国の経済は回っていかないのだ. テレビでそれらを取り入れた生活の素晴らしさが繰り返し映し出される. マインドコントロールだ. オウムの比ではない.ぼくたち日本人は戦前は天皇制下の軍国主義,戦後は象徴天皇制下のアメリカ民主主義の洗脳を受け続けたのだ. そして何よりも致命的だったのは,テレビによる洗脳は心地よかったのだ. 青い空,白い雲. 男と女たちが手をつないで砂浜を笑いながらかけていく. シュッポ! 栓が抜かれ,泡が溢れ,喉を鳴らしながらみんながコーラを飲む. ルンルンルン 「スカッと爽やか!コーカコーラ〜〜」 CMの中では人はいつもみんな爽やかで,よく笑い,仲が良く,見る者はそれを暗に強制された.見るだに恥ずかしくうつむくしかない明るさも,毎日大量に定期的に流されればそれが「爽やかさ」だと体が覚えこんでいってしまう. やがて衣食住が足ると,資本主義のシステムは必要のないもの人に買わせるための架空の欲望をでっち上げ,それで人々引き回そうとするようになる.拡大再生産がシステムである以上留まることはできないのだ. 衣食住のあとの架空の欲望,「幸せ」だ. 高価な商品をあげたりもらったりする事が愛や友情や幸せの表現だと枠が作られていった. 物は売れなくてはならない.だからみんな買う.そして拡大再生産の為それらは捨てられなかければならず,新しい物への欲望の喚起と捨てる事の正しさがテレビで大量に同時に流される.捨てて,また買う. 戦後の大事な事は物を消費する事であり,そのため物を消費する層,若者をターゲットに欲望が果てしなく喚起され,物を消費するための若者文化が次々とでっち上げられていった. みんな嘘っぱちだとは思っている. ただ騙されるよりは騙すほうにまわりたい.騙すほどの能力がなければ,せめて自分が騙されている事だけは知っているぞと思いながら馬鹿騒ぎの中にい続ける.それが高度経済成長期の中のぼくたちの一般的な意識だったと思う. ◎主人公の兄は2000年の日付を持つこの本のあとがきによると,その5年前に死んでいる.小説の中では40歳で死んだとあるので,生まれは1955年と考えていいだろうか. 多少のずれはあるにしても,兄の生きた時代は戦後が終わり高度経済成長期から不確実性と呼ばれた時代,そしてバブルにかけての時代だ. 時代を支える価値基準はない.あるのは物を売っていくために必要な時代の気分と雰囲気だ.時代はそれを心地よく人々に強制していき,人々はそうと知りつつ受け入れた.馴れ合いの時代だ. ◎人の正しい感覚と感情は自己増殖するメディアに飲み込まれ,否定され続ける.感覚と感情は煽られ,圧しつけられ,粉々にされ,吹き飛ばされた. 一人一人の個々の感じ方は無視され,あざ笑われた.「あなた」はいらない.同じ「あなたたち」がいればいい. そこから逃れるためにはパロディと韜晦,死んだふりしかなかった.でなければ,無視し,あざ笑う側に回るしかなかった. そして時代は馬鹿馬鹿しいほど明るく爽やかだった.大嘘と知りつつみんな明るさを演じた. それができない人間はどうしたのか. ◎それを拒否,あるいは受け入れる事のできない正直者は,誰とも共有できない,誰にも理解されない自分の喜怒哀楽,快不快,見えるもの,聞こえるもの,匂うもの,触れるもの,味合うものを抱え込み,理解できず,押し潰されていく. 当たり前に自然に感じることと,生物としての生きる上での必要な感覚が,生きる方向を示すことなく混濁し,我が身はちりちりゆっくりと引き裂かれていく. 生きる意味がわからなくなる.生きることは苦しみでしかなくなる. 自分の感覚と感情に飲み込まれていく.また同様に他人の感情のエネルギーも不可解なまま押し寄せてくる.入り混じった感情の重くうねるエネルギーの波に,木の葉のように浮き沈みを繰り返す. 生物としての正しい感覚は自爆のスイッチにしかならない. 生きていくことが死へと自分を押しやる. その苦痛から逃れるには,「コンセント」を抜くしかないのだ. ホッとする.息がつける.静かだ.何も聞こえない. だが今自分は生きていない.今の自分は嘘だ.生きるのだ.戦うのだ! そうやって正直者はまたコンセントを入れ,自分の身を引き裂く. 生き様がないではないか. どうすればいい? どうすればいいのだ. どうしようもなかった. だから彼は死んだ. ◎妹の「私」もそうだ.生きるために彼女は「ブラインド」を降ろした.感情と感覚の混乱を避けるために死んだ振りをする事を選んだ. だが兄の死によってブラインドは引き上げられる.光が差し込む. 彼女の新しい生活が始まったのだ. 「コンセント」は,しかしもう一つの新しい可能性を持っている. 「シャーマン」だ. 人のトラウマを瞬時に癒す「感応力」だ. これはしかし可能性としてだ. 価値基準のない毎日の生活の中で狂うことなく,感覚と感情を解放させることは殆ど不可能だ. 価値基準のない世界. このことを真剣に考えなければならない. 価値を作るのは,長い間の習慣,常識,新しく時代が強制する情報だ. いずれにしても大変な強制力を持つ.習慣は10年30年のものから,100年,500年,1000年,あるいは2000年,3000年と人類固有の習慣もある.常識は当たり前の事だから自分では気付けない. 時代が強制する価値観はテレビ,新聞,ミニコミも含める大量・同時情報操作による.洗脳だ. 洗脳されてしまえばいい.生きていける.今の我々日本人がそうだ. だが「感能力」を持った「シャーマン」=「コンセント」となるには,習慣,常識,強制力のある大量情報から自由でなければならない. 永遠に沈むことなく,太陽の光を照り返しながら巨大な波間を軽やかに乗り越えていく一枚の木の葉のような奇跡がなければならない. ◎自分の生物としての固有の感覚と感情が何で,それがどれほど今奪われていて,混乱し消滅していこうとしているのかを把握しつつ,解放できる力. 出来合いの価値基準無しに,正気を保ちながら狂える力. 手術の仕方も知らず自ら自分の体にメスを突き立て切り裂いていける力. それが新しい「コンセント」がまず持たなければならない力だ. だから彼には新しいものが見える. 習慣と常識と大量な情報に覆われた、別の何かが見える.それを真実とは言うまい.隠された何かだ. そしてそれは戦後からこれまで,この日本という国ではまず「死」だった. 「死」は商売にならない.だから隠された. そしてその事が人々から「生」を奪った. 「命」は全てだ,両方だ. 明るさも暗さも,親切も憎しみも,殺意も抱きしめたい気持ちも,無視も気になる事も,夢も絶望も,そしてそれらの間の微妙な違いや強弱も全部含んでいる. 表も裏も男も女も大人も子供も朝も夜も晴れと雨も全部同時に含んでいる. だから習慣や常識,大量同時情報のパターンがその一方を隠すと,もう一方の力も消え,さらに他の力がそれに従いゆっくりと次々に消えてく. しかし生きることを実感として強く望んだ時,両方が自覚される. 『私』は人の死の匂いをかぐ. それはきっと正しい感覚なのだろう. 「ブラインド」を上げ,兄に代わって兄の分も生きようと思ったからだ. 生を実感する時,死が浮かんでくる. 全身の細胞は3ヶ月で入れ替わると言われている.今もこの瞬間に生と死は高速で全身を駆け巡っているのだ.それは悲しみであり喜びだ ◎習慣と常識と大量同時情報から自由になり,原初の目で場を見る. その時,木は木ではない. ごつごつとした灰色の硬い丸い円柱と,風に揺れる無数の大小さまざまな色をもつ光を照り返す小さな広がり,斜めに伸びる細い幾本もの延長,そして二酸化炭素と水を吸い上げる音と酸素と水との吐き出す発生場となるのだろう. 人も人ではない. 知り合って5年が経つ,見知った友だちではない.新しい骨の成長,肉の隆起,微笑や淋しさやむかつきや諦めに揺れる心は絶えず変化し、その変化が新しい変化の元となる.食べた物でも天気でも、聞いた音でもかいだ匂いでも何かを変化させた.朝と昼,昼と夜とでも生きた分だけ変わっている. 時間と空間に人体も感覚も感情も呼応している. 一時として同じ状態はない.同じ人はいない. 同様に同じ花も,同じ風も,同じ思いも,同じ喜びや悲しみやあきらめもない. 瞬間瞬間人も虫も犬も鳥も,土も海も雲も変わっている.人の願いも変わり生物としての行くべき方向も変わる. 名のない世界.次々と生まれ続ける瞬間の世界. それらに感応し言葉にする事ができるのがシャーマンだ. 『私』はその可能性に向き合う. 「シャーマン」としての芽生えだ.開花ではない. 『私』は原初の目で人を見る. 命の揺らぎや変化や見える.感応しそれがイメージとして見える. 恐らく真実なのだろう. 人は人と原初の目で向き合う時,テレパシーが働くのだと思う.感じあい,分かり合えるのだと思う.鳥や魚が一斉にまるで一つの意志のように向きを変え,深海に,夕暮れに消えていくように,人も他の人とともに同じ正しい命の方向へ歩んでいけるのだ. 『私』にはそれができる.人の心がわかる.生き物の記憶がわかる.そこから行くべき方向がわかる.世界と協調する.世界の波動と同調する.世界の振動と共振する.そのための「アンテナ」を持つ存在,それが「シャーマン」だ.そして命の最も原初の姿が発現される場,性。 『私』と寝た男たちは忘れていた邪気のない時間を取り戻し癒されていた.『私』の意に反し男たちは『私』に感謝していた. それに気付いた『私』は,娼婦になる.そして男たちに原初の命の力を与え, 生きる力を引き出すのだ. ◎時代が生む最後の可能性. 最終回,二死満塁人類逆転の大ホームラン. 全ての人々が明晰な「シャーマン」になる. すべての人が今あるこの狂気を冷静に引き受け,感覚と感情を解放する. そして原初の目で,世界を人を木を川を空を牛をタガメを蛇を見,嗅ぎ,聴き,触れ,味合う. そのとき人は人と,人は動物と,人は鉱物と,人は地球と通じ合う. そのとき人は地球という生物と生きて在ることの喜びを心と体と魂の奥底から感じる合う事ができるのだろう. ◎田口ランディは新しい文学の可能性をこの「コンセント」で示したと思う. 人の心を感じ,読み取る. シャーマン. オカルトとも呼ばれる分野に文学が入ったのだ. だがそれはこれからの人類の進化の歴史において,必然性のある事だと思う.人類以外の生物,動物が本能により互いを見分け,通じ合っているように,人類も言葉や意識とは別の力で繋がり合っていかなくてはならない. だがそれは生物としての本能を取り戻すということではない.人間は人間とは何かを意識する動物であり,それは他の動物にはない能力だ. その力が他の動物を越える力を人間に与えはしたが,それが人間をここまで堕落,混乱させた.しかもそれは捨て去る事のできない力だ. 言葉と意識で言葉と意識とは別の力を獲得し,繋がり合っていく. それができた時,人類は進化の最終形態を手にできたのだと思う. 芽生えた直接的な交感能力,意識や言葉とは別次元での通じ合い. それらをどのように意識と言葉で表現していくのか. それがこれからの田口ランディの仕事なのだと思う. そしてこのことはもしかしたら,文学を越える大きな何かの始まりの一歩なのかもしれない,とも思うのだ. |