また子供が子供を殺した.

 

小学6年生の女の子が,小学6年生の女の子を殺した.

 

何が原因なのか.

新聞もテレビもいいネタと飛びついていく.

チャットでお互いの悪口を言っていた.

テレビのシーンを参考にしてカッタ−で切りつけた.

殺された女の子もほかの女の子の悪口をHPで書いていた.

 

これから色々と二人の過去が出てくるのだろう.

家庭環境が色々と取りざたされるのだろう.

メディアと子供たちの関係云々が言われるのだろう.

 

だがここで一番大事なことと考えなければならないことは,今のこの腐りきった,無責任の,口先だけの,いい加減で適当な大人たちの世界が,彼ら子供達にどれほど大きな影響を与えているかに全く無自覚でいるということなのだ.

 

たとえば今日,年金法案が強行採決された.

大人から見れば,また茶番が通った.こんなクズの国にこれまでもよくあった事がまた起こった,ですむ.

それよりも清原は今日は打ったのか,今度の夏の旅行はどこに行こうか,日曜日はどこに遊びに行こうか,そんな自分の気晴らしか,でなければ,自分の子供のことよりも自分の人生のああだこうだの自己実現に意識の殆どを向けているのが,今の大人たちの目に見える姿なのだ.

 

だが子供は悲しいことに,物心がつき,自分で見,感じ,考え始めた時,それはもう真っ白で,正しく,真っ直ぐで,美しく,考え,感じる.

我々はもうこの国が真面目でもなく,正しくもなく,汚れきり,馬鹿馬鹿しさの極地であることに慣れきっているが,子供たちはそうではない

このことはとても大事なことだ.

どんな時代であっても,子供たちは,最初は純粋で,誠実で,真面目で,正しく生まれてくる.

だが彼らが物心つき,目にする多くのこと(それがテレビや,インターネットでの情報だ.そこで彼らは建前の裏の本音を何の価値基準もないまま浴びせかけられる.価値の相対化は大人は理解できる.だが子供は知りたいのだ,何がしていいことで,何がしてはいけないことなのか.だがそのような価値基準は今のこの日本にはない.)で,驚き,息を詰まらせ,混乱し,怒り,憤慨し,だがそれを正していく方法をもたないがゆえ,(当たり前だ,小学生にそんなことができるわけはない)自分の周りの世界への判断を遮断し,快不快の生理的な判断の世界に閉じこもり,社会の醜さから自分を遠ざけ身を守る.

 

それからは自分が本来出ていかなければならないその社会から遠ざけられことの社会への無意識の怒りと嫌悪感をそのままにし,小さな自分と母親,気の合う2,3人の友だちとの世界の中へと埋没していく.

 

だが何が正しく,何が美しく,純粋で,誠実で,何をしなければならないのかへの震えるような欲求は,押さえ込まれたまま,窒息状態を続ける.

そして今の日本に何が正しく,何をしなければならないのかを示す言葉も人も、いない.いてもその声はとても小さく,風に吹き飛ばされていく.

窒息状態は続く.

正しい言葉がほしいのだ.

本来子供たちが持っている正しさを正しさと認めてくれる言葉がほしいのだ.

正しさを教えてほしいと思っているのではない.

既に持っている正しさをそれが正しいのだと認める言葉を待っているのだ.

だがそれはない.

 

わかるだろうか.

そうした心の状況が地獄だということが.

本来人間は正しく人と助け合って,互いに思いを分かり合い,生きて行くものだ.

それができず,しかしその思いは心の奥底に押さえ込まれ,子供たちは毎日の生活の中で今日も,今日も,今日も,今日も,殺し合いと,騙しあいと,偉そうな嘘の言葉と,適当な薄ら笑いの大人たちの連続攻撃の中を生きていかなければならないのだ.

 

そして彼らは我慢できずそんな嘘っぱちの世界の中で,生贄として、互いに殺し合いをして死んでいく.

それを大人たちは見,自分たちの気晴らしと実現不可能の自己実現の鬱屈を,後ろめたさと共に,眺める.

自分の中のわずかに残る正しさが消えていくのを,子供たちが殺しあい消えていくことで感じ,それを自己処罰と感じることで,自分の正しさを証明する.

 

罰と感じることで子供たちの殺し合いは大人たちの自己証明になる.

 

二人の小学生の個人が問題なのではないとあえて言う.

酒鬼薔薇の個人が問題ではないとあえて言う.

バスジャックや,母親殺しや,父親殺しや,子供の子供殺しは,個人が問題なのではないとあえて言う.

 

 

子供が銃で撃たれる,毎日毎日,自爆テロが続く,丸裸にして首輪をつけ引き回し,あざけ笑う,首を切り落とす,年金は誰も払っていない,テレビでタレントは馬鹿笑い.

彼らが目にするものの中には,どこにも真摯で,まっとうなものはないのだ.

あったとしても,出来合いの,勇気をくれてありがとう式の,よくある街のあちこちに落ちている手垢のついた恥ずかしい限りの,子供であるなら誰もが見抜ける,愛や感動しかしかないのだ.

 

だから彼らは最後の自分たちの誇りを共食いの中に求める.

もう大人は殺さない.

殺された大人はなぜ殺されるかを理解し,感じることができないからだ.

 

共食いの中で,彼らは彼らの正しさが実現できなかったことを互いの悲しさの中で確認する.

 

あっていいのだろうか,そんな悲しいことが.

だが今までずっとそんなことが続いてきた.

これからも続く.

この社会を支えるのは,子供たちの共食いなのだ.

 

すべてのどす黒く汚れた水は,一番柔らく澄んだ窪地に流れ込む.

疲れた.

                                     2004.6.3