希望の国のエクソダス 村上龍   20001029

 

「日本の事はもう忘れた.あの国には何も無い.この国には全てがある.生きる喜び、家族愛、友情と尊敬と誇り.我々には敵はいるが、いじめるものや、いじめれるものがいない.

「普通というのがわからない.みんな一人一人違うじゃないですか.

「学校へ戻りましょう.学校を拒否していろいろやったけど、それほど楽しいってわけではなかった.というのが私達の正直な感想です.そして学校を変えましょう.

「東大卒のおじさんが汚職したり、失業したり自殺したりしてますよね.でも子供達にはとにかくいい大学へ行けってそれだけを言われているんですよ.はっきりと嘘じゃないですか.

「子供はどこかで大人の社会に順応する訓練をしなくてはならない.順応すべき大人の社会に規範となるモデルが無いのが問題.

 

「どうして子供は発言してはいけないのか.大人にしかわからないことがあるのだったら、どうしてそれをわかりやすく説明できないのか.説明できないのは大人達が自分でもわかっていないからではないか.

「この国には何でもある.本当にいろんなものがあります.だが希望だけが無い.

「生きていくために必要なものがとりあえず全てそろっていて、それで希望だけが無い、という国で、希望だけしかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのか.

 

「今の政治家の生き方を真似ろ、今の政治家のように生きればいいんだと、なぜ僕らに向かって大きな声で言えないんですか?」

「もし僕らの計画が決定的に遅れれば、この国は全体が養鶏場のようになるでしょう.餌だけはきちんと毎食与えられて、狭い鶏舎に閉じ込められた鶏のような人間だけになって、略奪されたと知らないまま略奪され尽くすことになるでしょう.

「普通学校という所はリスクを特定してくれて、そのリスクを管理するための訓練とか勉強を行うんだと思うんですね.それがない以上そこを出て、自分達で何とか自分達なりにリスクを特定しながらそれを管理するようにしないと、あまりにも危険すぎるでしょう.

 

 

以上の言葉は作中の少年達の言葉だ.

全てそのとおりだと思う.

今の中学生の殆ど全てがそう思っているし、まだ思っていない子も無意識にそう感じている.そしてその事は、僕たち大人が思っている以上に彼らのストレスと絶望を生み続けている.

 

うんざりなのだ.本当にうんざりなのだ.話し出す意欲が全く無いほどにうんざりなのだ.

こうした状況はこの10年続いている.3代に渡り中学校を停滞の重い空気が覆い続けているのだ.

 

 

 

かつては敵は外にいて目に見えていると錯覚することができた.

それは国家や体制、大人だった.刃向かう対象ははっきりと見えたと無邪気に思えた.

大学生達は国会に突入し戦い、負けた.

 

敵は強く、敗北の後高度経済成長が始まり、生活は安定し、次々と毎日の生活の中に新しい物が入り始め、それは豊かさの感覚と満足を生み、批評する精神を弱めた.思想や哲学は切実な生き方の指針ではなく、取替えの利くファッションへと変化した.新幹線が走り、オリンピックが開かれ、カラーテレビ、車、クーラーが家に付き始め、誰も東大の安田講堂から飛び降りることはしなかった.

高度経済成長は物の消費を前提とし、遊ぶことを奨励した.遊び使い捨てることが正しいとされ、車と女の子とファッションと欲望をそそる消費社会の中で、自分の感性と考えで動こうとする者は孤立し、党派を組む者は思想の名のもとに互いを食い合い、何も生まず残せなかった.

それを見た子供達は政治や時代に背を向けた.

 

楽しく面白い道具が次々と生み出された。

マクドナルド、ぴあ、ジーンズ、Tシャツ、セブンイレブン、ウォークマン、ディズニーランド、ファミコン、プレステ、カラオケ、ケータイ、たまごっち、プリクラ、……

 

それがかつては敵とされていた国家や体制や大人の作ったものであれば、批評はせめてパロディが限度で、それは自虐的な色合いを持った.しかし彼らの消費が体制を支えたから、お互いに持ちつ持たれつが暗黙の了解だった.

時代に反抗はしない、時代の望むように遊び消費する、それで日本の経済は成長する.大学生も高校生も遊んだ.その裏に公害があった。楽しい毎日は、苦しむ人々上の成り立っていた。しかし娯楽の勢いにそれは他人事だった。後ろめたさが心の奥底に降り積もっていく。

 

環境汚染、環境破壊が時代の意識に上る。

宇宙船地球号が言われる。

大人達の言う通り、遊び消費してきた後、食べてきたものはジャンクフードと言われ、背骨は曲がり、壊してきた大人が犠牲となった子供に環境を守れといった……

 

時代への抵抗は価値観の相対化に移った.

新しい価値観の創造ではなく、何でもあり、にする.それを時代も望んだ.タブーが無くなれば、作るものの範囲が増え、量も増える.新しいライフスタイルと言って消費を加速させることができる。

やがて批評が消える.自虐と底無しの相対化の作業は辛いからだ.

毒くらわば皿までとなる.そして自分と他人との区別を意識し、その距離を測り、どう離し近付けるかの意志が消える.

感覚の無目的・無方向の緩やかな消費は判断力を鈍化し、麻薬のように子供の心と感受性、意識を蝕んでいく.麻薬のようにとはそれがとても楽しいからだ.

さらにその頃にはかつて敗北した世代、消費社会で遊びまくった世代が親となり、

彼らはひそかに大人を軽蔑、敵視していたから、親にはなれなかった.

 

そして世界は大きく変わった.

ベルリンの壁が崩れ、冷戦が終わり、湾岸戦争、ソ連解体、その影響で日本の政治も変わらざるをえなくなった。

国家や体制、大人が変わることを強制された.

その事はこの国の大人と子供の両方にはっきりと提示された.

子供達は見た.

大人達を見た.

そして大人達は何もしなかった.

 

大人は示すべき大事な時に何も示せなかった.

その後の政治は醜かった.

自社は連立し、党是を簡単に捨て、汚職と、数合わせの政治が続き、政治家は自分の言葉に責任を持たなかった.その間できたことは金だけを戦費として出し、金だけを援助金として出す事だった.それが世界への日本の姿勢だった。

 

それを子供達はじっと見た.

自分の考えを持たず自分の場所だけを見、他人への想像力が無く、生き方の指針を持たず、この国や他の国、世界がどうあればいいのかを考えることのない大人をしっかりと見、その後も見続けた.

 

社会はおかしかった.環境ホルモン、ダイオキシン。心も体も蝕まれている。心も体もがんじがらめに縛られた後、走るのが遅いと周りから毎日言われた。そんな馬鹿馬鹿しい社会をうんざりと眺めた.希望などあるはずも無い.しかも自分はそうした社会の中でのんびりと暮らしている.何も考えず何もしなければ、この社会は住み心地はいいのだ.自分達はそうした馬鹿馬鹿しいうんざりする社会にのんびりと暮らしている.しかし中学生にどうしたらいいのかの情報と、分析力と、行動力は無かった.蝕まれてしまっているのだ.彼らが自分の感覚と批評の力を取り戻す方法.それは痛みだった.眠気を取るために自分の膝に刀を突き立てるように、彼らは痛みを選んだ.いじめだ.

 

明確な敵としての国家や体制が消え、遊ぶことと価値の相対化の中で、結局新しい文化は生まれなかった.彼らは互いを傷つけながら正気を保とうとした.

 

そして今.

 

大人も子供も踊らされながらの遊びと使い捨てにうんざりしている.同じ事の繰り返しにうんざりしている.

価値観の相対化の作業も自分を不確かにするだけだった.

 

新しく出直す気持ちが生まれている.新しく創り出そうという気持ちが生まれている.そうしなくてはもうどうにもならないだろう、半ばやけっぱちの気持ちが生まれている.

そして一つの可能性としてこの「希望の国のエクソダス」が出た.

 

 

あり得るだろうか。

中学生にこのようなことが。

無いと思う。

残念だが無いだろう。

こんなス−パ−中学生はいない。

いたとしてもそれはこのままでは親になれないと気付いた数少ない親に育てられた、通常の教育体系から外れたわずかの子供達で、彼らは横のつながりを持たない。。

 

ただ、打って出てもいいだろう、守るばかりでなく。

言われっ放しではなく、言ってやれ。

見られるだけでなく、見てやれ。

指差されるだけではなく、指差してやれ。

 

という意識は生まれるかもしれない。

 

 

 

今の自分達の停滞と自虐と自己不信と軽蔑は決して自分達から生まれたものではなく、この日本の長い歴史から生まれたものだということを知って欲しいとぼくは思う。

と言って彼らはもうそうなのだから、大人がその責任を取らなければいけない。そしてその大人が僕だ。

さらにそうした中学生が毎日教室にやってくる。

であれば、今日その責任を果たしのかとぼくは僕に問わなければならない。

僕は黙ったままの昔の無責任を今日の一こま一こまの授業の中で、償ったろうか。

 

きっとそんな思いを自分自身に突きつけることが必要なんだと思う。

 

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