カリスマ             2003.4.30

 

「世界の法則を回復せよ。」

 

なんと魅力的な言葉だろう。

「世界の法則。」

 

戦争が起こりそうな時、憎悪の連鎖が途切れない時、親が子を殺し、子が子を殺し、子が親を殺している時、どうすれば良い?

 

その時、判断の基準、行為の支えとなる「世界の法則。」

魅力的な言葉だ。

悪魔的な言葉ですらある。

 

その様な言葉から始まる映画はいまどき珍しい。

だから期待したいのだ。

 

確かに廃墟から始まる弱々しげな人間の歩み。

そこには始まりの予感がある。

向こう側の見えない人をはねつける乾いた硬い赤茶けた映像。

そこには作り手の意志の在りようがはっきりと見える。

それぞれのシーンはストーリーに奉仕することなく独立している。

 

例えば後半、主人公の後ろの空に突如出現する、巨大な笑いたけのような渦巻き。

主人公が新たに見つけた「カリスマ」の後で空を見つめる巨大な2基のレーダー。

それを崖の上から主人公が見下ろしている。

 

ほとんど意味不明、理解不能のシーンだ。

 

「カリスマ」の持つ毒が世界へと広がっていく事を象徴しているのか。

新しい「カリスマ」が世界へ新しい悪意を放射している事を象徴しているのか。

それとも逆に、世界の相反する二つの苦悶の声を二つの耳で聞こうとしているのか。

 

わからない。

だがわからないままその二つのシーンは独立した物として消えることはない。

だから期待したいのだ。

 

そしてだからこそ、この映画、「カリスマ」は物足りない。

中途半端だ.中途半端なのだ.登場人物も映画も.

 

「カリスマ」を守る青年.

外の世界を知らぬまま、自分の尊敬する人の残した「木」を命を賭け守る.

だがその「木」をなくしたあと彼はそれまでの真っ直ぐな思いをなくす.

そして他人(薮原刑事)の見つけた新しい「カリスマ」をそれは「カリスマ」ではないと言いながらも、新しいカリスマを守ろうとする男にこれまでの木を守る役割を譲り、自分は人殺しで得た金で外の世界へ出ようとし、それもかなわない.

 

女植物学者の妹.

姉である女植物学者(風吹ジュン)は徹底している.

「カリスマ」は毒だ.怪物だ.抹殺しなければならない.だが森はすでに「カリスマ」に汚染されている.森と「カリスマ」のどちらを取るかではない.もはや生態系を守る為には森全体を抹殺しなければならない.

そこで彼女は森全体を抹殺する為に毒を流し、「カリスマ」に火を放つ.

 

そんな姉の徹底さについて行けない.

彼女はただ外の世界に脱出したい.

生と死の二者択一に彼女はもはや耐えられない.

彼女は薮原に外の世界に連れて行ってほしいと懇願する.

そして同じように生と死の二者択一に疲れ、森からの脱出を望む青年に刺し殺される.

薮原刑事.

この映画の主人公だ.

彼は人質と犯人の両方を助けようとし、両方を死なせた過去を持つ.

だから彼は森全体と一本の特別な木「カリスマ」の両方を生かしたいと望む.

二者択一ではないのだ.

救うのは両方なのだ.

 

彼は「カリスマ」を生かすか、森全体を生かすかの二者択一の中で考える.そして彼は、その問い自体がおかしい.両方を生かすことを考えるべきだ.それがあるがままだ.その結果両方が死んでも、それがあるがままであり、受け入れるべきものだ.

特別な一本もない、森全体もない、あっちこっちに平凡な木が生えている.それだけだ、と考える.

 

彼のその言葉は言葉としてみれば重さを感じなくもない.

だが彼のその言葉は映画の中で唐突に現れる.

何かの事件があったわけではない.

何かの時間が過ぎたわけでもない.

唐突にそれらの言葉は語られるのだ.

 

その後彼は新しく見つけた新しい「カリスマ」を守る者となり、それを奪おうとする者が現れた時はそのままにする.あるがままにするわけだ.

 

物語の必然として、彼の前にまた人質と犯人が現れる.

彼は今度はためらわずに引き金をひく.

人質を助け、撃たれた犯人を助けるため森を出、病院へ犯人を連れていく.

 

 

だが何が彼を変貌させたのか.

映画の最初で躊躇した彼が、なぜ今度は何の躊躇もなく引き金を引けたのか.

それに対する答の映画の時間がない.

唐突であり、中途半端なのだ.

 

薮原が言った

 

 

「特別はない.森全体もない.あっちこっちに平凡な木が生えている.それだけだ.」

 

 

この言葉は重い.実に重い.

この言葉こそがこの映画の時間が求めた言葉ではなかったのか.

そしてこの言葉こそが世界の法則であったはずなのだ.

 

「世界の法則を回復せよ」

 

彼の森への浸入、森での生活、森からの脱出.

それはあっちこっちに平凡な木が生えている.それだけだ.ということを知る為のものだったのではないのか.

 

ぼくにはそう思えるし、しかしそうであるのなら、映画はそのための必然の時間を用意してはいなかった.

犯人に死なれてはたまらない.

 

そんなあせりに急かされつつ藪腹は瀕死の男を引きずり、町へと向かう.

 

そこに「世界の法則」を実践する人間の喜びや確信があるか。

 

ないのだ。

上空を戦闘ヘリがライトを地上に向け町へと飛ぶ。

 

男は死ぬだろう。

また両方を生かすことはできなかったはずだ。

何が足りなかったのか。

 

簡単だ。

 

すべてが平凡であるという事の実感が作り手になかったのだ。

 

今度はそれを期待したい、と思う。