回 路     2003.5.13

テーマは「人は人とつながれない.人は生きていても死んでいても孤独.」ということだ.

 

ある時,死んでいた死者たちが,生き返ることを願う.

彼らが生き返るには,この世に生きている者を殺し,入れ替わるしかない.

死者たちの侵略が始まる.

 

ある者は自ら死を選ぶ事で,無になる事から逃れようとする.

だがそれもかなわない.永遠の孤独の檻に閉じ込められるだけだ.

ある者は死者たちと戦おうとする.

といって何か有効な手段を見つけたわけではない.その為の調査を行うしかないのだ.

 

街はやがて死者たちの黒い影と燃え上がる黒い炎で崩れていく.

 

人は人とつながれない.

吉崎の作った人工生命.

コンピュ−タの画面上で小さな点が動く.

近づけば離れ,離れると近づく.

近づき過ぎると死んでしまうので離れて行き,離れ過ぎても死んでしまうので,また近づいていく.永遠にそれを繰り返していく.

それが人間だ.

 

「幽霊の部屋に行ってみませんか?」

 

そのサイトで自分の部屋をライブで公開している人々がいる.

だがそこに映る男女たちは何かを訴えかけるわけでもなく,ただ静かに部屋の中に座っているだけだ.コミュニケーションなどありえない.だがそれを捨て去る事もできない.だから彼らはカメラのフレームから逃げられない.

彼らは生きてはいるが,死者と変わらない.

実際映画の中では死者と同じように黒く滲んだ姿をしている.

 

 

 

 

 

映画「回路」の中で,唯一恐怖を予感したシーンだった.

もしわざとらしい音もなく,わざとらしい途切れ途切れの映像もなく,ただそこで1分,そのままにカメラが置きっ放しになっていたら,どれほど恐ろしかっただろうか.

 

音楽がよくない.

いかにもホラーという女の声,弦楽器の震え.

そして黒く滲んだ彼らと死者の姿は滲みすぎていて,絶対の虚無を思わせない.絶対の孤独に悲しみはないのだ.

 

それは後半の垂れ下がる黒い雲の下,崩壊していく街や,黒煙を吐きながら落ちていく飛行機のシーンにも言える.

 

そこにはこの映画に登場する生者と死者が共通に持つ虚無が感じられないのだ.

作り手のホラー映画の映像はこうでなければならないという意志が裏目に出ているように思える.

つまり,うるさいのだ.

 

また,冒頭とラストで出てくる役所孝司の役回りが映画ではわからない.

侵略する死者と生者の戦いが,十分に説明されていないのも気になる.

 

 

例えば,「CURE」のラストで役所孝司がレストランでうまそうに食事をするシーン,「ニンゲン合格で」主人公の葬式で立ちすくみどこともなく同じ方向を見上げる人々,また役所孝司が絵葉書を見るラストシーン,そこでは見る人による様々な解釈が可能になるだろう.

だがそのためには,説明すべき部分はきちんと説明し,さらにその上に,映像の論理的な自己増殖力による新しい展開がなければならない.

 

「回路」にはそれがないようにぼくには思えた.

話の筋が見えない.

一つの映像が必然的に次の映像を生み出していく自己展開力がない.

 

映像は断片的に作りすぎ,ストーリーに起承転結(序破急でもいいが)がない.

死者に虚無を吹き込まれ,あとは無になるのを待つだけの加藤晴彦を女は懸命に助けようとするが,その意志の在り様がわからない.

希望とでもいうものが彼女の中にあったのなら,それを支えるものが何なのかを知りたかったのだ.

 

そのようなものなどない,という事がこの映画のテーマであったはずだからだ.

 

人と人とは近づくと死んでしまう.

離れていても死んでしまう.

 

そんな状況の中でどうやっていけばいいのか.

そんな映画を見たいものだ.