海辺のカフカ カフカ少年について−2 ●だから彼はとても強いのだ. 「母と交わり父親を殺し、姉とも交わる.」 そう父親から言われ続けながらどうして狂いもせず、暴力にも走らず、引きこもる事もせず、家を出る事を決意し、しかも出る事ができたのか. 唯一心和む場所が図書館で、時に学校の友人の歯を折り、その後友人とのコミュニケーションを断ち、1人体の鍛錬に入り、ひたすら馬鹿な教師の勉強に集中したりする中、どうして綿密な家出の計画を立てたりできたのか。 そこが僕の知りたい所だったのだ. なぜ切れもせず、断念もせず、ひたすら一歩を踏み出す決意を捨てることなく持ちつづける事ができたのか. 彼の小学生、中学生1,2年の時の生活が知りたかったのだ. ●村上春樹の作品で、少年が出てくる作品は「中国行きのスロウボート」「沈黙」「神の子どもたちはみな踊る」がある.ほかにもあると思うが今思い出せるのはそれだけだ. その中の「沈黙」には中学から高校、そして大学、社会人になり結婚し子供を持つまでの現在31歳の主人公が出てくる. 彼は中学の時ボクシングジムに通い始めた. 彼は無口で目立つ事が嫌いで、しかし自分の感じ方や考え方には固執し、それを捨てる事は決してしてはいけないと思っていた。すぐに彼は学校よりもジムでの生活を馴染みあるものとして受け入れる. 彼は言う. 「グラブをつけてリングに立っていると、ときどき自分が深い穴の底にいるような気がします.ものすごい深い穴なんです.誰も見えないし誰からも見えないくらい深いんです.その中で僕は暗闇を相手に戦っているんです.孤独です.でも哀しくないんです.」 級友に頭がよく冗談も言えてスポーツもでき人望もある生徒がいた.しかし彼にあるのは周囲に上手く合わせ、その中でのしていくだけの要領の良さだけだと彼には思えた.彼は思う. 「この男には自分ってものがないんです. 他人に対してこれだけは訴えたいというものが何もないんです。自分がみんなに認められればそれだけで満足なんです。」 彼はその級友を自分の対極にある人間だと思い、その級友も同じように考えていた. 或るテストで彼は満点を取った.それを見た級友は腹立ちまぎれと自分の立場を守るため、彼がカンニングをしたといううわさを巧妙に流した。それは功を奏し、彼はクラスのみんなから白い目で見られるようになった. 彼はそんな級友を問い詰め、強く体を押し付けてきた彼に右ストレートを反射的に入れてしまった. 高校になり、また二人は一緒のクラスになる. 或る日いじめを苦にして生徒が自殺をする.彼の体はあざだらけだった. その時その級友が彼が昔からボクシングをしていた事と自分が彼に殴られた事があると周囲に流す.もちろんいじめをしていたのが彼であるとみんなに信じこませるために. その結果、彼は警察の取調べまで受けることになる。 もちろん証拠はなく、取調べはそれで終わるのだが、それ以後卒業までの半年間、彼はクラスの無視に合う.彼はこう思う。 「負けるわけにはいかないんだと思いました.そいつに勝つとか負けるとかそういうことじゃありません.人生そのものに負けるわけにはいけないと思ったのです.自分が軽蔑し侮蔑するものに簡単に押し潰されるわけにはいかないんです.僕は半年間我慢しました.誰とも一言も口をききませんでした.自分は間違っていないんだ、みんなが間違っているんだ、と自分にいい聞かせ続けました.」 彼は卒業し大学でもボクシングを続け国体にも出場する事になる. だが31歳になった彼は突然身に降りかかるそうした悪意を心の底から怖いという.今でも時に真夜中、その恐怖に打ち負かされ妻の胸で1時間近く泣いてしまうことがあると言う. だが続けてこう言う. 「でも僕が本当に怖いと思うのは、彼のような人間の言い分を無批判に受け入れてそのまま信じてしまう連中です.自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です.本当に怖いのはそういう連中です.そして真夜中に夢を見るのもそういう連中の姿なのです。夢の中には沈黙しかないんです.そして夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。沈黙が冷たい水みたいにどんどん染み込んでいくんです.そして沈黙の中、何もかもがドロドロに溶けていくんです.」 こうした孤独と個である事の強い意識、他人と無批判に同調する個人への嫌悪と恐怖、そうした感性を持った少年が家出前のカフカ少年と考えていいと思う.(この部分は大島さんが何よりも嫌い恐れるものとして語ったものと同じだ.) ●『神の子どもたちはみな踊る』での主人公、「善也」は小学校に入った時、自分が「神の子供」である事をいわれる. そのときの彼はこう感じる. 「どう考えても自分はどこにでもいる普通の子供だった.というよりもむしろ「普通より少しばかり下の場所にいる」子供だった.目立つ所もなかったし、しょっちゅうへまをしていた.」 さらに彼は13歳の時棄教する.その理由はこうだ. 「善也を決定的に信仰から遠ざけたのは、父なるものの限りない冷ややかさだった.暗くて重い、沈黙する石の心だった.」 彼は自分の父親を知らない. 母親は完璧な避妊をしつつ「まぐわった」にもかかわらず、妊娠してしまう.堕胎する. また完璧な避妊をし「まぐわう」が、また妊娠してしまう.それが3回繰り返され母親は自殺しようとし、助けられ、そこで神が地上に降りたがっていると人から言われ生むことを決意する.そうして生まれた子供が主人公、善也なのだ。 「父なるものの限りない冷ややかさ、暗くて重い、沈黙する石の心。」 中学生の時に彼が父親に感じていたものがこれだった。 父親は存在が確認できない、理解不可能な存在だったのだ。 カフカ少年が父親に感じたのもこの「限りない冷ややかさ、暗くて重い、沈黙する石の心。」であったと思う。 だが『神の子どもたちはみな踊る』では主人公は父親を探す。 或る日それらしき男を見つけ尾行する。その途中見つけたピッチャーズマウンドにふと立つと、踊りだす。 そして 「自分の身体の中にある自然な律動が、世界の基本的は律動と連帯し呼応しているのだという確かな実感」を感じる。 踊りは激しくなっていく。彼は 「誰かの視野にある自分を、ありありと実感する事ができた。彼の身体が、肌が、骨がそれを感じ取った。しかしそんな事はどうでもいい。それが誰であれ、見たければ見ればいい。神の子どもたちはみな踊るのだ。」 そう考える。さらに、 「ふと自分が踏みしめている大地の底に存在するものを思った。そこには深い闇の不吉な底鳴りがあり、欲望を運ぶ人知れぬ暗流があり、ぬるぬるした虫たちの蠢きがあり、都市を瓦礫の山に変えてしまう地震の巣がある。それらもまた地球の律動を作り出しているもののひとつなのだ。」 と感じる。 こう感じる主人公はすでに25歳ではあるが、「沈黙する石の心」から、「脈動する大地の底のエネルギー」を感じ取るまでの変化を経験したのだ。 自分が「神の子」である事を感じる事ができず、13歳のとき信仰を捨てる。(原因は教団の社会通念と相容れない厳しい戒律に反発しての事だが。)しかしそのあとの葛藤は描かれていない。だが彼は父を探す。そして最後には「踊り」の中で父を感じるのだ。だがその必然の流れは物語の中では描かれていないと思う。最後の 「神様、と善也は口に出して言った。」 という言葉もその出所が僕にはわからない。 「神の子どもたち」の1人であるからだろうか。 こうなればという願いからなのだろうか。 ●家出前のカフカ少年の姿は「海辺のカフカ」では描かれない.家出を決意するまでのカフカ少年と通じ合うのは、「沈黙」での少年が近いのだろう。 孤独と個である事の強い意識、他人と無批判に同調する個人への嫌悪と恐怖、自分の考えと感じ方を持ったことへの責任。 そして『神の子どもたちはみな踊る』での父親探しと父親との和解はこの後テーマからは消え、最初に「善也」が父親に感じた「父なるものの限りない冷ややかさ、暗くて重い、沈黙する石の心。」が残り、それが『海辺のカフカ』に引き継がれる。 ●ところで「善也」は大学生のころ、ガールフレンドから「かえるくん」と呼ばれていた。ディスコで踊る手足の長いひょろりとした彼の姿が、雨降りの中の蛙に似ていたからだ。 「かえるくん」は『神の子どもたちはみな踊る』のすぐあと、「かえるくん、東京を救う」で蛙の姿になり東京を巨大地震から守るためミミズくんと戦うことになる。 その姿はどこか戯画化されたものではあるが、「神の子善也」は東京を救うのだ。 だがそれよりも、僕はこのかえるくんとコンビを組む東京安全信用金庫新宿支店融資管理課係長補佐の片桐さんとのやり取りから、「カーネル・サンダ-ズ」 と星野さんを思い出した。 次に『カーネル・サンダ-ズ』と『ジョニ-・ウォーカー』について考えてみる。 2005.1.8 |