海辺のカフカ (5) ナカタさんについて−4 ●ナカタさんのような無垢で無私で誠実で純粋な存在が今ありえるとは思えない. そんな時代でない. また彼がそうなれたのも小学校の時の特異な経験によるものであり、彼の努力や修行によるものでもない. だがもし彼のような存在が(それが少年であれ、青年であれ、またオヤジであれ、老人であれ、)いたとしたら、星野青年のようについていくしかないだろう(と僕は思っている). それはナカタさんがやはり現在を鳥や猫や木や花のように100%生きているというところから来ているのだと思う.ナカタさんは個としての意識も記憶もないし感情もないし性欲もないからどうしょうもなく100%現在を生きるしかないわけだが、にしても100%現在を生き切っているという姿は現代という時代に生きる我々にとっては奇跡的なことだと思われるのだ. ●僕たちは毎日毎日駆け引きと臆病と嘘と苦笑い、傲慢と金縛りの中で生きている.いつも後悔と取り越し苦労と反省の中で卑屈に生きている. いつも現在に過去と未来とが逆流、乱入しているのだ. 目の前にいる相手の目の微妙な揺れやほんの少しの頬の引きつり唇のゆがみなどに気づくことなく、相手への言わなくてはならないと思っている言葉をただひたすらぶつける事にしか注意を払えない. 自分の責任をとにかく果たそうというせこい思いしか相手には向けられないのだ. 目の前の相手、目の前の状況を感じ取ろうとする余裕も勇気もない. だからマニュアルに頼る.頭の中では次にこうなったらこうしよう、さっきこうだったから次はこうしよう。そればかりが頭の中を走る.目の前の今という状況は頭の中にはないのだ.目の前の自分と同じ体温を持った動物の存在を感じ取る事はない. それが1日続く. そうして1日が終わる. だから一日を思い起こしても思い出せるものはない。結果としてうまく行ったかうまく行かなかったか、自分に落ち度がなかったかどうか、責任を取るような事が起こらなかったかどうか、それしか思い浮かばない. 自分に落ち度がなかったという事がわかれば一日は無事に終わり、安らかな眠りにつくことができる.だがそこにあったのは自分の自分を見る目だけだった.自分は誰も見ていなかった.だから誰も自分を見る事はなかった.当然のことだ. いつも自分の中で空回りし、同じ場所で足踏みをし、自分で自分の襟首をつかみ歩き出そうとしている足を引き戻す。それが僕たちの毎日だ(ろう.) ●現在を生き切れない. 現在に集中できない. 現在を見る事、感じる事が怖い. できればそこから逃れたい. 見知った自分の時間の中で終始したい. だからナカタさんが気になる. ナカタさんが素晴らしく見える. 時にナカタさんが羨ましく思える. 邪魔するものがないのだ. 眼前に起こる現象をそのままに感受する.それを言葉や知識で説明しない.自分の心の傲慢と臆病で感動を汚さない. ナカタさんは見えるままに物事を見る. 起こってしまった事は起こってしまった事でそれを受け入れる事が大事だという. 現在は起こり続けているのだから当然のことだ. そして起こるべくして起こっている事だからそれを受け入れない理由がない. それに文句をつけるのは人間の傲慢と臆病なのだから. ●ナカタさんは自分が空っぽである事を嫌った. だが僕は自分が空っぽになり、目の前の現在がその中を真っ直ぐに入ってきてくれる事を望んでいる. 判断などせず、感じ取ったこの世界の方向と重さと感触を元に言葉をその後に置きたい.まず現在が強いたあるいは優しく誘ってくれた道を歩きたい. 「ナカタさんならどうするか.」 星野青年が言った言葉がそのまま胸に染み込んでくるのだ。 ナカタさんならどうするか. けっこうこの言葉、これからの指針にしたい. ナカタさんならどうするか. 2004.12.31 |