海辺のカフカ(4) ナカタさんについて−3 ●ナカタさんに転機が訪れる. それは切実だ. 「ふと思うのですが,このナカタという人間は一体なんだったのでしょう.」(32) これは大きな変化だ. ナカタさんは個を意識しなかった.生物の無意識で生きてきた.だがここで彼は自分を意識する.しかも過去形でだ.「一体なんだったのでしょう.」 これから彼は「入り口の石」を開ける.無意識のうちにその際使われるエネルギー,命の消費の大きさに死を予感したのだろうか. さらに 「ナカタは頭が悪いばかりではありません.ナカタは空っぽなのです.それが今の今よくわかりました.ナカタは本が一冊もない図書館のようなものです.昔はそうではありませんでした.ナカタの中にも本がありました.ずっと思い出せずにいたのですが,今思い出しました.はい.ナカタはかつてはみんなと同じ普通の人間だったのです.しかしある時何かが起こって,その結果ナカタは空っぽの入れ物みたいになってしまったのです.」 「ナカタは普通のナカタになりたいと思います.」 「自分の考えと自分の意味を持ったナカタになりたいのです.」 「ナカタはあと半分の影を取り戻さなくてはならないのです.」 「ナカタは怖いのです.ナカタはまったくの空っぽです.空っぽということは空家と同じなのです.鍵のかかっていない空家と同じなのです.なんだって誰だって自由にそこに入ってこられます.ナカタはそれがとても恐ろしいのです.」 (32章) そう話した後,星野青年とともに「入り口の石」を開ける。そして次の仕事はその石を閉じることだ. 「はい,ホシノさんそのとおりであります.開けたものは閉じなくてはなりません.その後でナカタは普通のナカタに戻ります.」 ●その後ナカタさんは海が見たいと言う。 二人は砂浜に並んで座って,長い間何も言わずに瀬戸内海の海を眺める。 「海というのはいいものですね.」 「どうして海を見ていると心が安らぐのでしょうか.」 海に住む無数の魚や貝や海草や岩や砂や波が彼の無意識に流れ込んで来るからだろう. 彼は最後の役割を無事終えるためにパワーアップと最後の現世での思い出を作ろうとしているのかもしれない.彼にはない思い出をだ. 最後の役割. 「入り口の石」を閉じること. そしてもうひとつは佐伯さんをあるべき場所へと戻すことだ. 佐伯さんは15の時の完璧な時間を永久のものしたいと狂おしく望んだ. その結果彼女も「入り口の石」を開け,森に入り,そこで15の記憶を永久のものとした.それは色あせることなく,何の変形も受けることなく,15の時の純粋と誠実,愛と幸福,震えるような喜びや予感,狂おしい抱擁,そして静謐と静かな眠りをそのままにした.そして佐伯さんはそれを現世へと持ち帰ったのだ. それ以来彼女は夜になると彼と過ごした部屋で15歳の少女となり、過去の完結した美しく充実した時間の中で生きるようになる. だから彼女の現世での人生は止まった. ナカタさんに現在しかないように彼女には過去しかなくなったのだ. 佐伯さんは15で時間を止めたからだ. 「深い井戸のそこで独りで生きているようなものでした.」 (42章) ●ナカタさんは甲村図書館を見つける. 佐伯さんに「現在」を取り戻し、彼女をあるべき場所へと戻すためだ. だがそれは同時に佐伯さんの死を意味する. 佐伯さんには過去しかないからだ.過去の中でしか生きていけないからだ. ともに死を覚悟する二人の会話は重い. 続く 2004.12.30 |