海辺のカフカ(3) ナカタさんについて−2 ●なぜナカタさんは猫と話ができるのか。 ナカタさんは「世界の終わり」に行った。 「世界の終わり」とは無意識の世界だろう。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の壁の中の世界だ。 そこでは記憶と心が剥奪され個としての意識を失う。そこで人々は静かに何も思わず考えず時間の中に溶け込み生きる。そこでは時間は流れない。 だがそこで人々は静かにお互い通じ合える. 「いちいち考えなくても分かる.いちいち言葉がなくても伝えられる.」(47章) あまり物も食べない. 「ときどきでいいの.ときどき食べたくなったら食べる.実際良く食べるのを忘れてしまうの.ときには何日も.」 (同) そんな世界だ。 だがナカタさんはそこから現世へと帰ってきた。 「出入り」をしたのだ。 そこにナカタさんの存在の意味がある。 ナカタさんはだから過去の記憶がない。文字が読めない。人との繋がりへの欲求がない。性欲がない。喜怒哀楽がない。 独り木工細工をしつつ50年をその後この現世で生きてきた。 あるのは現在だけだ。 だが直面する現在を100%受け止めることができるナカタさんは,記憶や感情や性欲に囚われ惑わされる我々よりより的確な判断と,その起きている現在,目の前の事件を正しく感じ取ることができる。 そこに何物にも汚されていない無垢で無私なナカタさんが生まれる。中野区から高松まで,ナカタさんは1円も使わず行き着く。人々の善意を自然と引き起こすのだ。 ●ナカタさんは意識と無意識の境目にいる。 意識とは言葉だ。意識は人間にだけある。個を自覚できる. 無意識は本能であり,全ての生物が共有している。群れをつないでいる.鳥や魚や鹿や花や,木や,みんな瞬時に群れの方向を変え,同時に芽を花を咲かせる.無意識で分かり合っているのだ. その境目にいるナカタさんはだから猫と話すことができる。 猫と無意識で繋がっている。 しかし『ジョニ-・ウォーカー』をカフカ少年の代わりに殺した時,猫と話せなくなってしまう。それは彼の中に怒りという感情が生まれたからだろう。(同様の感情,彼が失った感情の復活の最初は,暴走族にリンチを受け死にそうになっている若者を見たときに生まれる。) これまで喪失していた感情が再生した時,「からっぽ」である彼に中身が少しでも戻ってきた時,その見返りとして生物の無意識から遠ざかってしまう。 彼は猫と無意識で繋がっていた通路を失う。 ●その後のナカタさんは無意識との通路を再強化するために,『眠り』を活用する。眠ることで無意識へと降りる。いや恐らくさらにその下にあるいわゆる集合的無意識と呼ばれる所にまでに降りていくのかもしれない。 そこでは物事の順序が全て印されている。 過去の次に現在が現在の次に未来が記されている。 原因のあとに結果が印されている。 意味と意味とは重なり合っていない。 物事のあるべき順序がそこに印されている。 『カーネル・サンダ-ズ』の仕事がそれだ。 「物事がもともとの役割を果たすように管理する。私の役目は世界と世界との間の相関関系の管理だ。物事の順番をきちんとそろえることだ。」 (30章) 順序をあるべき姿に整える。機能の完遂。それが彼の仕事だ。 そしてナカタさんの仕事もまたそれだ。 ナカタさんが小学生の頃,人間の言葉を失うことで生物の共通の無意識の世界へと入り,自然と,地球上の全ての生き物と繋がる経験をし,さらに意識の世界,人間界へと帰ってきたのは,物事の順番をきちんとそろえるためだった。 ではその順番とは。 田村カフカ少年が,人間としての成長の一歩を正しく踏み出すこと。 それに尽きると思う。 そのために彼は50年を生きた。それが彼の人間としての役割だった。それが彼が記憶と言葉を失うことで,得た役目だった。 少年が正しく一歩を踏み出すため「入り口の石」を開けること。彼の生涯が刑務所の中で終わらぬよう彼の代わりに父親を殺すこと。それがナカタさんの現世での役割,現世へと戻った意味なのだろう。 人のこの現世での生きている意味や役割はなかなかわからない。そんな事を考え独り部屋に閉じこもり動きを止めてしまうより,今という時間に没入し夢中になって何かに熱中することのほうがいい。それはそうだ。 だが没入も夢中になることも熱中することもできないのが現代だ。それがまず前提条件だ。だからみな自分のこの世界での生きている意味,存在理由,を必死に考えてしまう。 そしてナカタさんのように独りの少年が一歩を踏み出せるために50年を生きてきたという人生も当然あるわけだ。 50年彼は待った。 そしてカフカ少年の父親を殺し,入り口の石を開け,死んだ。 彼の言葉は駆け引きに汚されない。 彼の言葉は彼自身のおびえや傲慢に犯されない。 彼の言葉はそねみや恨みに浸されない。 彼の言葉は憎しみや性欲に引きずられない。 現在の反映だ. だから彼の言葉は,例えば,「うなぎはナカタの好物であります。」でも「里芋はナカタの好物であります。」でも「焼きなすもキュウリの酢の物も,ナカタの大好物であります。」でも「アジの酢の物はナカタの好物であります。」でも「焼き魚も卵焼きも,ナカタの好物であります。」でも,どれも深く美しい言葉に聞こえるのだ。もちろん書き手の力量によるものだが,物語の中の登場人物の言葉ということが分かっていても,こうした言葉は透明な風のように心の中を通り過ぎていく。ぐっとくる。きてしまう。 うなぎや里芋や焼きなすキュウリ,魚や卵への率直な思いが込められ,そこに愛と呼んでもいい言葉の重みと響きを感じてしまうのだ。 ●「星野さんの気持ちのよさは,ナカタの気持ちのよさでもあります。」 「ナカタはもう年を取っておりますし,もうしばらくすれば死ぬでしょう。お母さんもすでに死にましたし,お父さんもすでに死にました。頭がよくても悪くても,字か書けても書けなくても影がちゃんとあってもなくても,みんなその時が参りますれば,順々に死んでいきます。」 「お二人に良いことがありますように。ナカタは及ばずながらお祈りいたしております。」 「なんといっても,人を殺すのはよくないことであります。」 「橋を渡るのはなんといってもとても大事なことです。」 「ナカタに分かっておりますことは,誰かがそろそろそれをやらなくてはならないということです。 「世界にはほんとにいろんな猫さんがいるものであります。」 「どうして海を見ていると心が安らかになるのでしょうか.」 深読みする気はないし,実際深い意味などはないが,人間の意識を欠いている人の言葉だから様々な意味を持っているような感じがしてしまうのだ。 だがそんなナカタさんにも転機が訪れる。 2004.12.29 |