「海辺のカフカ」      「カーネル・サンダ-ズ」と想像力

 

●彼の幼い頃からの孤独と苦しみと、潜在意識の具象化をテーマとする父親を持ったという環境がその通路を開いたと思うが、大きな要因は想像力だ。

 

カフカ少年が突然意識をなくし、気が付くとTシャツが血だらけになっている。どうしていいかわからずバスの中で知り合ったさくらさんのアパートに転がり込む。

そこで夜寝る時になり、彼は若い女の人と一緒の部屋にいるためなかなか寝付けず、さくらさんはそんなカフカ少年を見ていっしょに寝ようと言う。

二人はひとつ同じ布団に入る。

だがカフカ少年は勃起してしまい、さくらさんは「やれやれ」と言って、射精してくれる。

その時彼は言う。

 

「さくらさんの裸を想像していいですか。」

「そんなの勝手に想像すればいいじゃない。いちいち私の許可をもらわなくたって、君がなにを想像しているかなんて、私にはどうせわかりっこないんだから。」

「でも気になるんだ。想像するって大事なことだという気がするし、一応断っておいたほうがいいように思ったから。わかるわからないのことじゃなくて。」

                                     (11章)

 

またこのことを後日思い出してこう言う。

 

「僕がなにを想像するかは、この世界にあっておそらくとても大事なことなんだ。」

                                      (第15章)   

 

 

また彼が図書館で働くことが決まるまで森の丸太小屋で過ごしていた時、読んでいた本の後ろの見開きに大島さんのメモを見つける。そこにはこう書かれてあった。

 

「全ては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。 In dreams begin the responsibilities.

まさにそのとおり。逆にいえば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。」

                                      (第15章)

 

また大島さんはこう言う。

 

「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。一人歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとって本当に怖いのはそういうものなんだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。 (略) 想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでも続く。そこに救いはない。僕はそういうものを適当に笑い飛ばしてやり過ごしてしまうことができない。」     

                                     (第20章)

 

大島さんがこの物語で最も熱く語る場面だ。

 

さらに想像力とは、夢や生霊、深層意識のトンネルを信じる力でもある。

カフカ少年は父親が死んだことを新聞で知り大島さんにこう言う。

 

「僕は夢をとおして父親を殺したかもしれない。特別な夢の回路みたいなのを通って、父を殺したのかもしれない。」

                                      (第21章)

 

また15の佐伯さんを見たあと彼は大島さんに人が生きながら幽霊になることがあるかを聞き、大島さんが答える。

 

「それは生霊と呼ばれるものだ。 (略) それは空間を越えて、深層意識のトンネルをくぐっていく。 (略) エジソンが電灯を発明するまでは、世界の大部分は文字通り深い漆黒の闇に包まれていた。そしてその外なる物理的な闇と、内なる魂の闇は境界線なくひとつに交じり合いまさに直結していたんだ。

平安時代では生霊というのは怪奇現象であると同時に、すぐそこにあるごく自然な心の状態だった。しかしぼくらの今いる世界はそうではなくなってしまった。外の世界の闇はすっかり消えてしまったけれど、心の闇はほとんどそのまま残っている。僕らが自我や意識と名づけているものは、氷山と同じように、祖の大部分を闇の領域に沈めている。そのような乖離が、ある場合には僕らの中に深い矛盾と混乱を生み出すことになる。」

 

内なる魂の闇。

 

その世界を信じ、それを見据え、静かにそこに入り込んでいける力が想像力だろう。そのトンネルを通じ猫の心と感応もし、また人の魂の奥底の願い(生霊)を見ることができ、現世を越えた深い森に入ることもできるのだろう。

またその闇の中に混乱のまま入り込み囚われた時、「ジョニ-・ウォーカー」が生まれる。

 

正しく想像力を通して内なる魂の闇に入り、出ること。

その時人間は自分の命を流し、よどみを作らず自分の生を生き切り、死という大海に向けて命の大河を流れていくことができる。

 

そういえば東京を大地震から救った「かえるくん」も

 

「いずれにせよ、全ての激しい戦いは想像力の中で行われました。それこそが僕らの戦場です。」                  「かえるくん、東京を救う。」 

 

とあった。とはいえそうした闘いは別に『海辺のカフカ』に始まったことではない。

『羊をめぐる冒険』で既に想像力での戦いはあった。

 

●だがここで改めて考えたいのだ。

1人の人間が頭の中で考えること。

1人の人間がスイカほどもない小さな頭の中で考えること。

それが何の価値も大きさも意味もないことなのか。

恐らくたぶん、たった1人の頭の中で行われている戦いが、全世界の未来を左右する決定的な戦いと等価であるのだろう。

 

それは決してロマンチックな幻想ではない。

つまらない自分の人生に無理やり意味を引っ付けようということではない。

そうではなく、1人の人間の戦いはそのまま大勢の他の人とつながっているということなのだ。

繰り返すがこれは孤立し、孤独に疲れた人間の最後の一か八かの博打ではない。人は繋がっているのだ。それを実感しなければならない。

その時小説を読むこと、あるいは書く事、に実践的な意味と価値とが生まれるのだ。

そしてそうした読解力、読み解く力とは、その対象が書物だけに限定されるのではなく、ビルの街、並ぶ稲穂、目の前の兄弟、父母、じいちゃん、ばあちゃん、見知らぬ他人、ブラウン管の中の殺戮、ネットの中の残虐、森や海、自分の心、教室のみんな、先生、クモや空、転がる石、舞う枯葉、それら全てが読解の対象なのだ。

 

全てが意味を持ち話しかけている。

その言葉を聞く耳を持たなければならない。

耳を澄まさなければならない。

聞こえてくるまで待つ力を持たなければならない。

何の見返りもないことを諦めなくてはならない。

 

そしてだけど顔を上げ、背筋を伸ばして、真っ直ぐに歩いていかなくてはならない。

星野青年みたいに、颯爽と。

 

「諸君、焚き火の時間だ。」

 

2005.1.10