『海辺のカフカ』       カーネル・サンダ-ズについて

 

●「カーネル・サンダ-ズ」の正体は書かれている。彼は自分の仕事を次のように説明する。

 

「物事がもともとの役割を果たすように管理することだ。私の役目は世界と世界との間の相関関係の管理だ。物事の順番をきちんとそろえることだ。原因のあとに結果が来るように。意味と意味とが交じり合わないようにする。現在の後に過去が来るようにする。現在のあとに未来が来るようにする。」

 

そして自分自身は、「今は仮に人間のかたちをしてここに現れているが、神でも仏でもない。」と言い「何が善で何が悪か、それは私の知ったことではない。」が神と「多少のコネクションがないでもない。」とも言う。  

 

さらに次のようなことも言う。

 

「いいかホシノちゃん。全ての物体は移動の途中にあるんだ。地球も時間も概念も、愛も生命も信念も、正義も悪も、全ての物事は液状的で過渡的なものだ。ひとつの場所にひとつのフォルムで永遠に留まるものはない。宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便なんだ。」                   (30章)

 

●物事は変わる。

変わりつづけている。

そして人生を変える変化は突然来る。多くは悪意のかたちを取って。

だがそれにただ従うのではなく、それに抗することも、変わることの中のひとつだ。変化に抗うことに囚われることなく、抗う。それが正しい変化への処し方だろう。

 

そうした変化はしかし、川の流れのようには流れてはいかない。いやむしろ川の流れのように今は澱むのだ。

殆どが人間の生産活動を原因とする地形の変化、気候の変化から生じる川の流れのよどみ。

よどみからは腐敗のエネルギーが生まれ、それはさらに流れの流れを邪魔し、本来の川の力を衰退させる。川は当たり前に、自然に、海にたどり着けなくなる。

それを正すのが「カーネル・サンダ-ズ」だ。

 

「物事の順番をきちんとそろえることだ。原因のあとに結果が来るように。意味と意味とが交じり合わないようにする。現在の後に過去が来るようにする。現在のあとに未来が来るようにする。」

 

●流れだ。

命の流れだ。死をも含めた命の流れだ。

それを正すのが彼。善も悪もないのだ。善いも悪いも関係ない。

それが結果として社会から悪と見られたとしても、それは一時のことだ。だいたいこの国でだって50年ちょっと前には学校で人殺しを正しいと教えていた。

 

「鬼畜米英」。

体育の授業では米英兵に見立てた人形に木刀で殴りかかり、竹槍を突き立てていた。戦争のない時代に5人を殺せば鬼、悪党だが、戦争中では少なすぎると勲章ももらえない。

 

人がその時代にあわせて作り上げた善悪に囚われる必要はない。その時命が流れているか。命が澱んでいないか。うつむいていないか。人をそねんでいないか。愚痴ばかりこぼしていないか。つまらぬことにつまづいてはいないか。

心は重くないか。呼吸は浅くはないか。胸は苦しくはないか。

 

●命を流すこと。

当たり前に川の中の全ての水を順々に流し海へと向かわせること。

それが大事なのだ。

もちろん人を殺すことに命の流れを感じる人もいるだろう。

人殺しに生きている実感を感じ歓喜する人もいるだろう。

だがそこには何かのまちがいがあるはずだ。

何か大きな勘違いがあるはずだ。

なぜなら命は生きていくことを本来望む。

生き生きと、あるいは静かにゆったりと、生きていくことを望む。

生は死を望まない。

 

●死を望むのはよどみがあるからだ。

「カーネル・サンダ-ズ」はナカタさんと星野さんを動かしよどみを取り、カフカ少年が損なわれ続ける人生から命の流れる人生への一歩を踏み出させた。

きっとこの宇宙にはそんな役目の人がいるのだろう。

そんな役目を負った存在があちこちの惑星を飛び回っているのだろう。

そしてきっと人手不足なのだろう。

この惑星では毎日命そのものが打ち砕かれ、生き残った命も大きなよどみの中に音もなく引き込まれていく。

 

どうすればいいのか。

自衛が必要だ。

では、なぜ、カフカ少年に「カーネル・サンダ-ズ」が来たのか。

つづく

2005.1.9