海辺のカフカ(1)   構成について。

 

●『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と同様に,二つの違う話が交互に進められる。だが『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が,同じ話の表と裏で最後に一つに統一されるのに対し,『海辺のカフカ』ではそれは違う話であり,統一はされない。

統一はされないが同じ世界の中で同時に起こっている別々の出来事が,実は互いに深く通じて合っていることを示している。

 

この話は端的にいえば,日本の男子中学生の救済物語だ。

1人の男子中学生を助けるために,多くの大人達があちこちで力を尽くす。

いまこの国で15歳の男の子が,自分の思いを見つけ,それを確かめ,それに従って行動を起こすことはとても難しい。

自分の思いがどこにあるのか,それを探す意欲が弱い。あっても確かめるための意志の力が弱い。確かめてもそれを行動に移すには決定する力と勇気がない。

 

目を閉じれば安全に暮らせる衣食住のそろった日本。

自分の殻に閉じこもって生きていける。

といって目を開けば,世間には馬鹿馬鹿しい事件がいやというほど溢れ,世界では終わりのない暴力の世界が広がっている。

性と暴力。

それを見れば無力感と厭世観しか生まれない。

 

そんな中,どのようにして自分の世界を作っていくのか,その第一歩を踏み出していくのか。

その第一歩を踏み出すための物語,というふうにも読める。

 

●第1章にはいる前に,『カラスと呼ばれる少年』という章から始められる。

カラスと呼ばれる少年との対話は,カフカ少年の内省の姿だ。ナイーブで,孤独を好み,小さな時の居場所は図書館で,一日の殆どの時間をそこで過ごし,しかし言葉での他人との交流は苦手ですぐ赤くなり,また何かのスイッチが入ると,暴力へと向かってしまう。

 

そのための防御策としてカフカ少年はカラスと呼ばれる少年を作り,何か事がある時は彼を呼び出し彼と会話するという形を取ることでパニックを回避する。彼なりの自己コントロールの手段なのだ。

 

●だが不思議なのは,この章の最後だ。

 

15歳の誕生日がやってきた時,ぼくは家を出て遠くの知らない街に行き,小さな図書館の片隅で暮らすようになった。

 なんだかおとぎ話みたいに聞こえるかもしれない。でもそれはおとぎ話じゃない。どんな意味合いにおいても。』

 

何で,「図書館の片隅で暮らすようになった。」と過去形を使わなければならないのか。

この文章の直前では,同じ内容の文章の最後で「図書館の片隅で暮らすようになる。」とかいて,そのすぐあとで「なった。」と先程の過去形になる。

 

この不自然さが不思議だ。

また,物語の冒頭で話の先を言ってしまうのも分からない。

 

●おそらくこうだ。

この作品はこれまでのどの作品よりも,書く力に任せてしまった作品なのだ。

書く力に任せるとは,自分の意志と意識と無意識,さらに潜在意識に任せる。

自分の意志と意識だけで書いていくのではない。

自分が意識できない,自分の意志の及ばない自分の中身に対し,それが書くことで引き出され,ことばに次々となっていくことに制限を加えない。

むしろそこにこそ本当のことがあるのだと信じ,耐え,任せる。

ということだと思う。

 

またそこには自分の無意識,潜在意識が他人のそれと通じ合っているという願い,あるいは確信がなければならない。

「この世界における一人一人の人間存在は厳しく孤独であるけれど,その記憶の原型においては私たちは一つに繋がっているのだ。」 (12章)

 

という言葉もある。

 

●この作品で村上春樹は何を書くか何を書きたいかの願いだけはあったが,どのように書いていくのかに対してはまったくの徒手空拳,出たとこ勝負,マックでのアドリブ,だったのではないか。

この章ではナカタさんさんを出す。この章ではジョニーウォーカー,ここで父親殺しで,ここで大島さんを出す。

 

そのような事前の構成を考慮せず書き出したのではないかと思われる。

 

それがまだ家を出ていないのに,「ぼくは遠くの知らない街に行き,小さな図書館の片隅で暮らすようになる。」と書かせてしまう。

 

図書館に行くことが大事なのだ。

まずそう決めてしまう。

どうそこへ行くかに関しては何もまだわからない。

あとは書く力に任せるしかないのだ。

大変勇気のいる仕事だと思う。

それは恐怖といってもいい。

だからその恐怖を回避するために,「ぼくは遠くの知らない街に行き,小さな図書館の片隅で暮らすようになった。」

 

と過去形を使ってしまう。

まだそこまで行っていないからだ。

実際こう書いて図書館で暮らすようになるまでに,本のページ数でいって285ページも書き進めていかなければならない。

 

その唖然とするほどの長い道のりに踏ん切りをつけるために,思わず「図書館の片隅暮らすようになった。」と過去形を使ってしまったと僕には思われるのだ。

 

●またもう一つ構成として不思議な章が続く。

「アメリカ陸軍情報部報告書」だ。

 

これが第1章でカフカ少年が家出をした直後の第2章ででる。そしてその後,第4章,8章,12章。と続くのだ。

 

物語の中でこの章はナカタさんの過去を知る上で必要な章ではある。

だが他の章とは異質だ。

どこが異質かというと文体にある。

それはそうだ。軍の極秘資料であり,報告書であるからだ。

それは書く力に任せた文章ではない。

書く力に任せた困難で行き先の見えない書くという旅にでた途端にそれはいったん停止する。

報告書とは過去の出来事を書式に従って,書くものだ。

ある力に任せて書くものではない。その対極にあるものだ。

では何故そのような形を取ったのか。

やはり僕はその直前の「現在形」から「過去形」に変わった流れの中にあるのではないかと思っている。

 

どういう経過をたどればカフカ少年は世界への第一歩を踏み出すことができるのか。それは書いて見ないと分からない。書いて見ないと分からないのだ。

もしかしたらカフカ少年はどこかであえなく死んでしまうかもしれない。いやむしろその可能性のほうが高い。だがこの物語を書き出そうと決意し,実際にこうして書き出しているという現実を作者は信じてみたいのだ。

既に書いているという事実,そこにカフカ少年が救われる可能性がある。

だがそのための方法は。

分からないまま書き出しているのだ。

その不安を抑え,物語を前進させ,さらに書く事の運動を進めていくために,まず支えとしての枠組みのある文章を選んだ。それが報告書だ。

言ってみればウォーミングアップだ。

硬い書式の言い回し,質問と答という形式。

しかしその中でナカタさんの姿が描かれていく。

 

だが第2章,最初の報告書ではそのせいか物語に必要なまだ言葉になっていない奥底の部分には手が届かず,12章で真実の報告書として語り直されなければならなくなる。

 

●結局集団昏睡,集団催眠の原因は明らかにされない。

空に浮かぶ銀色のジュラルミンのきらめき,光の奇妙な美しさは提出されるが,結論は出ない。

すぐ次の第3章で,「ジュラルミンのように時々眩しく光る」さくらの耳のイヤリングが出てくるが,これも発展することはない。そしてこれ以後,カーネルサンダ−ズの「銀色の携帯電話」以外この「銀色のジュラルミンの輝きは」が出てくる事はない(たぶん)。(『カーネル・サンダ−ズ』の携帯が銀色というのは怪しいがそのつながりはぼくにはわからない。

 

 

●ただ最も大事なことは,集団昏睡する彼らが皆何か大事なものを見ているということだ。

 

「瞳はまるでどこか遠くにある風景を端から端まで見渡しているみたいに,静かに左右に動いていました」  (第2章)

 

「子供たちは私たちに見えるものを見ないで,私たちには見えないものを見ているように見えました。いやむしろ「目撃している」という方が印象として近いかもしれません。」  (第4章)

 

「入れ物としての肉体だけがとりあえずそこに残されて,留守を預かり,様々な生体のレベルを少しずつ下げて,生存に最低限必要な機能を維持し,その間本人はどこか別の所に出かけて,何か別の事をしているみたいに見えました。<幽体離脱>という言葉が私の頭に浮かびました。」 (第8章)

 

 

別の所に行き大人には見えないものを見てきた子供たち。

だがそれを覚えているのはナカタさんだけだ。

しかもそのことをナカタさんは覚えていない。

 

子供たちが見,忘れたもの。

ナカタさんさんが見,覚えてしまったために忘れてしまったもの。

それは次のナカタさんの項で考えてみたい。

                                 2004.12.25