葉っぱのフレディ―いのちの旅    

 

死ぬことを考えると、こわい。

息が止まってしまうのだ。

試しに3分ほど息を止めてみたが、苦しい。

そして死ぬのは息が止まるからだ。

それを思うとこわい。本当に体から力が抜けていき、こわい。

 

しかし年をとっていれば心臓も肺も筋肉も弱まり、少しずつ少しずつ弱まり、死に馴染んでいく筈だから、今心配するほどのこともないのかもしれない。

また記憶も近い記憶は飛び、代わりに遠い記憶が鮮明になりそこに没入できるようになれるのなら、息苦しさも気にはならなくなるだろう。少年の頃の、いやもっと前の幼稚園やハイハイをしていた頃の美しく輝く世界の記憶に包まれながら死んでいけるのなら、それほどのこともないかもしれない。

 

しかしやはり、このままでは死ねない、何にもまだ残してないぞ!と思っていたり、生きてきた意味がわからないとあせっていたり、誰にも感謝されたことがなかったり、死後どこにも繋がらないという不安を強く持っていれば、死を考えることは恐怖をしか呼び起こさないだろう。

 

しかし現在、社会に共通の価値観や目標はなく、それは個人に任され、結果みんなぽつんとぼんやり孤立している。また自分の苦しい今の努力が将来の成功に結び付く保証もない。この技術を習得すれば一生食っていける。というものがない。世の中の動きは速く混沌としている。

母親の言うとおり学校で必死に勉強してテストで良い点とって高校、大学と行っても、オウムに行ったり、その間犠牲にした人間付合いのマイナスで閉じこもり引きこもりストーカーになったり、という流れも定番となっている。

別に若い人だけではない。

子供が独立したあとの母親。自分探し、自己実現に追われ、いつもここではないどこかへと引きずられて行く働く女性。

自己犠牲に応えてくれるどころか逆に裏切った会社に、リストラを恐れてしがみつく父親。夢と希望を自分達が潰しておいて、その事を棚に上げ、夢をもて希望を持てという大人にむかつく子供たち。

 

 誰もが自分の人生に不安と不満を持ち、1日を行き切れていない、結果、心のバランスを失っている。

だから誰もが死を恐れている。

 

親が百姓だから自分も百姓になり、必要な技術を必死でおぼえ、朝から晩まで田で働き、その事を当たり前と感じ、人から百姓と認められ、自分もそうだと思い、作物の出来不出来に喜び涙し、やがて子に自分の技術と知識を渡し、死んでいく。

 

そんな幸せな一生を我々はもう持てない。

死を恐怖とともにしか考え感じられない時代。

それが現代だ。

 

しかしだからこそ、一人一人がただ生きるということに、全力を尽くしていい時代と考えることもできる。

 

普通に生きることが不可能に近い時代だから、普通に生きることが大変に価値ある、大変な事業となる。

そう考えると、朝顔を洗い歯を磨くことからが、意義ある大切な作業となる。一こすり、一磨きに価値がある。大変なことをしていることになる。

 

狂った時代に歯をゆっくりと磨けることに偉大さを感じたい。

人の人生に振り回されず、今いるここに全てを集中する。

 

全てを必然と捉え、過去に悔いることなく、未来に取り越し苦労をすることなく、今とここを大事にしたい。

フレディが人々に木陰を作り、枯れ、地に落ち、木の肥やしとなり永遠の命へと繋がるように。

 

しかしなんてそれは難しいことだろう。

ぽつんと生き、ぽつんと死に、それで終わる。

そうとしか想像のできない現代とは、ほんとに生き辛い時代だ。

 

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