グリーンマイル 人の心がわかり,その痛みを感じることができ,さらにその病んだ肉体を治す事ができる力を持ったコフィー,彼はどのような人生を送ってきたのだろうか。 まず彼の巨大で頑丈な肉体は,必要不可欠なものだったはずだ。激しい心の痛みは肉体を犯していく。頑健な肉体がなければすぐに他人の痛みに体が殺されていく。心とその入れ物である体は表裏一体だ。互いに影響しあっている。 また彼は他人の心を怖がったはずだ。 他人の憎悪や嫌悪,疑いやあざけり,蔑みや怒りを絶えず感じ取ってしまうのなら,他人は恐怖の的となる。そして人は人を思いやり耐え許すことよりも,はるかに憎むことの容易さを選び取る。 彼は言う。鋭利なガラスの破片が体中に絶えず突き刺さってくるのだと。 電気椅子に向かう彼への誤解からの憎悪に,だから彼は後ずさった。 彼は善き人の病んだ肉体を治すことを選ぶ。 二人の少女,主任看守,所長の妻。 彼は悪人を治す事はしない。それはこの映画での一つの主張なのだろうか。 コネを盾に横暴に振舞うハーシー。 彼は死に行く者への最後の希望さえも奪い取る。 幾つもの刑務所をたらい回しにされる,冷酷で残忍,理性のかけらも無い男。 僕は最初この二人がコフィ−に触れ,あるいは主任看守に触れ,心改め成長していくものと思った。それはこの二人にどこか憎めない所があったからだ。そしてその事はありきたりな物語への落胆と,しかしにもかかわらずこうした物語への期待を僕に抱かせた。 悪さえも善であり救われる物語。 それが演出なのか,彼ら二人の役者の素なのかが不分明で,曖昧なまま見続けたが,二人の最後はあくまでも罰であった。二人には改悛の余地の無い悪い心があり,それは死でしか償えなかった。 それは映画のメッセセージなのだろう。悪い心を持ったものはここでは変われないと。 そしてそれはこの映画への物足りなさの一つだ。 またこの映画を見ながら思ったことがある。 それは他人の痛みをとるだけで,傷つき続ける者が,癒すことで癒されることは無いのかと。 しかしそれは所長の奥さんの腫瘍を身に受け,治した時に起こる。 奥さんはコフィーを見て言う。 「体中傷だらけ。どうしてそうなったの?」 コフィーは覚えていないという。 しかし自分がその巨体の内側をどれほど傷つけボロボロにしているのかを分かってもらえた時,癒すことで癒される喜びを彼は深く味わったことだろう。 他人の心が感じ取れる者。 何もコフィーのようなまでの力でなくていい。 人の心を敏感に思いやれることは,人として良いことではあるが,本人の心の負担は大きい。 自分の心でさえ収拾が付かないというのに,他人の心までが押し寄せてくる。 今の子供たちがそうだ。 敏感な心。 そして感じ取りやすい強いエネルギーの心とは,憎悪だ。 他人のあざけりや蔑みを感じ,優しい心を傷つけ,武装のため同じ憎悪の心を投げ返す。そして悪循環。 いや,ここではグリーンマイルだ。 コフィーは救われた。奥さんの言葉に救われた。 処刑直前彼は脱獄を主任看守から勧められる。しかし彼は断る。もうこれ以上人の苦しみを感じたくない。人の憎悪の感情を感じたくない。安らぎがほしいと。 人は愛を利用して殺し合いをしている。そんな世界はもういいと。 だが,だからこそ死んでほしくはなかったのだ。 脱獄し生き延びるコフィー。 そこから新しい物語は始まるではないのか。 そこから新しいものの感じ方と考え方,思想や哲学や宗教が始まるのではないのか。 それが今問われているのではないのか。 憎悪に満ちるこの世界で,どうすれば悪を許せるのか,悪とさえも共に生きていける方法はあるのか。善なる心弱き者は滅びるしかないのか。 そこがスタートとなるべき場所ではないのか。 それがこの映画への物足りなさの二つめ。 これは大きい。 映画の作り方はうまいだろう。3時間を超える時間を感じさせない。電気椅子でなかなか死なない心優しい男。体がばちばちと音を立て炎まで吹きだす。 必要ないだろ。 この映画での主張に関係のないシーンだ。しかし映画のメリハリとしては必要で,飽きさせない。だが決定的な問い。 脱獄したコフィーはどうやって生き延びていけばいいのか。 善なる心は生き延びることができるのか。 は語られない。 心弱き者,あなたは滅びていくしかないのか。 誰にも理解されず,伝えるべき相手も持たず,周囲のざわめく憎悪の波に翻弄されるだけで終わるのか。 人の苦しみを引き受け,吐き出すことのないコフィーのように自家中毒を起こし死んでいくしかないのか。 人はみな自分のグリーンマイルを歩いている。 作者はそこまでしか言えない。 物足りなさの残った映画だ。 2001.1.8 |