『指輪物語』 ゴクリは救われたのか?

 

長い長い物語だった。読むのに1ヶ月かかった。

だがトールキンの細部への想像力の深さはリアルだったし、いかに彼が書く事が好きだったのかが素直に伝わってきて、一気に最後まで読み続ける事ができた。

だが不満が残る。

それはしかし小さな不満ではない。決定的な不満だ。

 

ゴクリは救われたのか?

 

ラストはそれなりに複雑だ。

フロドは最後に指輪の魔力に屈し、指輪を捨てる事ができなくなる。そして、

「指輪は私のものだ!」と叫んでしまう。

 

追いかけてきたゴクリはフロドの指を食いちぎり指輪を奪い、「いとしいしと!」と叫びながらも指輪と共に火口へと落ちていく。指輪は当初の目的を果たし、燃えつき、世界に平和が戻る。

そこに、善は裏切られることで成就し、悪は成就することで滅びる、という真理を見る事はできるかもしれない。

だがゴクリは救われたのか。

『ホビットの冒険』でほんの1,2行、ゴクリの子供時代の描写がある。小さな頃、彼はおばあちゃんとよく川に遊びに行ったのだ。彼にも幸せな時代があった。しかし指輪と出会い、その力に屈した。そりゃ屈しるだろう、白の魔術師、ガンラルフでさえ指輪を恐れ遠ざけたのだ。英雄などではないゴクリに拒否する力があるわけが無い。彼は指輪に囚われる。

 

しかし彼の『いとしいしと、いとしいしと』という呟きは、実は尽きることの無い欲望に引きずり回される我々人間の姿そのものではないだろうか。(しかもゴクリは自分の事も「いとしいしと」と言っていた。限りない自己への執着、我々の病だ。)

ガンダルフだの、アラゴルンだのそんな元からの英雄はどうでもいい。ホビットでさえもいつも率直で善良で勇敢だ。問題は堕落したホビットであるゴクリが救われるかどうかなのだ。

 

欲望に苛まれ、引きずられ、醜く奇形したゴクリ、眠っているフロドに優しい気持ちで手を差し伸べる優しさを残すゴクリ、彼が救われるかどうかがテーマなのだ。

堕落し、醜く姿を変え、自らの悪意を呪うしかない人間は、果たして救われるのか?

これこそが「指輪物語」のテーマではなかったのか?

 

もしも『いとしいしと』と指輪に口づけしながら火口を落下するゴクリが、最後に欲望の無意味に気付き、指輪をフロドの指から抜き、真っ赤に燃える火口に自ら投げ捨てたなら、それこそが最も正しい終わり方だとぼくは思うのだが、どうなのだろう。

2003.2.2