Elephant-1
気にはなっていたが、カンヌ映画祭で賞を取ったということで見る気が失せていた。 どうせ、友人たちを射殺する高校生の孤独な心の内面を鋭くえぐり、そうした悲劇を生んだ病んだアメリカを鋭く告発する映画、だと思っていたのだ。 アメリカを悪くいう映画をフランスが誉める。 そんなパターンだと思っていたのだ。 だが実際は全く違っていた。 いやむしろ驚いた。 ここには日常と非日常はない。 ゼミで活発に発言する学生たちも、酔っ払いの父親に悩む学生も、母親の干渉にむかつく女の子も、通信販売で銃を買い高校で友だちを殺戮する男の子も、体育の授業で短パンをはけない女子学生も、写真にこる学生も、皆同じレベルで描かれているのだ。 普通であればなぜ彼らが銃を買い、自らの死を覚悟し、学校に乗り込み先生も生徒たちも殺しにいかなければならないのかを、説明するはずだ。 彼らの幼い頃からの生活歴、両親との関係、家族での位置、友だち関係、学校での先生とのやり取り、個人的な性癖、隠れされたエピソード。 そういったものが普通はぞろぞろと出てくるはずなのだ。 そして結局は社会が悪い、あるいは、個人の特殊な性格が原因の特殊な事件なのだ、あるいはその両方、ということで収まりをつける。 エレファントにはそれがない。 物語がないのだ。 収まりはつかないまま問題は放置される。 銃乱射事件は朝目覚めて歯を磨くのと同じように当たり前に起きていく。 しかしそこからそうした事件は、生物としての人類の進化の歴史の中では、おかしくはあるがそれほどおかしくはない程度の小さな出来事である、という結論が出てくるわけではもちろんない。 あってはならない哀しい出来事であるとの表明は、その淡々と進められていく押し殺された画像の速度や、美しすぎる木々の緑、不吉な空と雲、に十分すぎるほど表れされている。 だいたいあの冒頭の電柱のシーンは何だ。 あれほどに意味もなく、美しさもなく、しかし、どうにもこれから忘れることができないだろうと強く思わせるシーンはないと思う。 というか、あれ、エヴァンゲリオンのどこかにあったはずだ。 電柱。 電柱は電気を伝える。 だが電柱はその伝える電気で、何かを知ることはない。 間に入るだけだ。 通過する場所。 それが電柱だ。 殺戮を決行する二人も、殺される大勢の学生も、皆生きている意味を自覚できていない。 自分がどこから来て、今どこにいて、これからどこに行こうとしているのかを実感できない。 何か大事なものが通り過ぎていく。 その通り道程度でしかない、自分。 その苛立ち、空虚感、生きていることの不確かさ、それがこの映画の前提にある。 わからないのだ。 なぜ自分が生きているのか。生きていかなければならないのか。 殺戮を決行する二人はいじめを受けていた。 それは映画の中で描かれている。 だがそれは物理の授業での腐ったバナナを投げつけられるシーンと、校長を射殺する直前でのわずかな会話にしか説明されない。 説明がない映画なのだ。 そしてそれがこの現実に対して今取り得る最も誠実な態度として納得ができる。 何かの理由をつけ説明し、それを観客が見、納得し、そして問題の本質が忘れ去られる。 世界の悲惨さが取り残される。 答などないのだ。 この人生での答などない。 だから、人は答を求める。 生きていることの不安を解消するために答を求める。 そうか、そういうことだったのか。 そう感銘を受け、本質を忘れる。 この映画はいつまでも問題を抱え込むことを見る人に要求する。 なぜ? なぜ、二人は友人たちを殺した? それも殺しまくったのだ。 なぜ。 手がかりはない。 問題は宙ぶらりんになったまま目の前にぶら下がる。 カメラはいつも登場人物の後ろから一定の間隔を置いてついていく。 そこに見える光景は彼らの背中と、その先の実にありきたりの光景だけだ。 そしてその光景がいつもぼくたちが毎日見ている光景と同じ光景であることに気づく時、ぼくたち観客は映画の中に吸い込まれる。 虚構である映画が観客の現実になるのだ。 ぼくたちが毎日目にし経験する現実は、意味がわからず、起承転結もなく、エンドレスで続いていく。 生きていることの確かさなどなく、一体自分は何をしているのだろうと自問自答することでかろうじて、無意味という意味を確認するにとどまる。 物語を排除したこの映画は見ている者たちの現実と等価となり、見ている者に見ている者の人生の現実を思い出させ、経験させるのだ。 つらい映画だ。 だが同時にいつもなら気にもしないありきたりの光景に、目を強制的に向けさせられてしまうことから、実はそうしたありきたりの光景こそが何よりも美しいのだという、人生のもうひとつの側面に気づかされることになる。 To be continued 2005.5.31 |