Elephant‐2 ぼくたちはいま自分のしていることが何なのかわからない. 何でこんなことをしている? こんな事をしていて一体何になる? そんな事をいつも心の中で呟きながら朗らかに笑っている. だがそれは人生に意味を、価値を考えた時に始まることなのだ。 いつか誰かが何かの為に、それにふさわしい意味と価値を考え、それを世間に流布し、それを空気のように透明で確かに存在するものとして人々の感情や感覚、頭の中に巧妙に刷り込み、叩き込む. 高貴で崇高な価値と意味から程遠い僕たちは、そこからの距離と落差から、不安と苛立ちと無力感とに包まれることになる. 人を顎でこき使うことを願う不可思議な人種が考え出したトリックだ. さらにこの地上で生きる生物としての特性として、自分がいまこの地上で生きているのだと意識した結果、今この地上から遊離してしまい、不安と苛立ちと無力感とに包まれるということもある. そしてその不安と苛立ちと無力感とを意味と価値とで埋め合わせをしようとしてしまう. だが今ここを生き切っているものは、意味も価値も考えない. そうしたものにとって世界は美しい. いや美しくも醜くもない. それは価値と意味から生まれた区別だ. 今ここを生き切っているものは今もここも意識せず、時からも超越し、全てものと同調し、呼応し、響き合っている. 簡単な話だ. 3つ4つの子供は皆そうだ. 大人になるに従い、今とここから引き剥がされていく. その空虚を、意味と価値とで埋め合わせていく. ぼくたちは彼らの背中の後ろをついていく. そこで目の前の彼らを考え感じ取ろうとする. そのうち自分たちが彼らであることに気づく. ぼくたちも彼らと同様、過去を引きずり、未来に不安を覚え、通りを歩いているのだ. だが微妙にぼくたちは彼らと違う. ぼくたちは彼らには気付かれぬまま彼らの背中に張り付いているのだ. その時一瞬ぼくたちは彼らの支配者の位置に立つ事ができる. その時一瞬ぼくたちは意味と価値から自由になれる. その時一瞬目の前のありきたりだと思える光景をありのままに見ることができる. 次に意味と価値から自由になったぼくたちは、過去と未来からも自由になり、目の前の現在に没入することが可能になる. その時ありきたりの光景は、美しく目の前に広がる. 車の中から見上げる街路樹、公園の古く朽ちた木の根、どこまでも続く誰もいない長い廊下、光の中の窓、古びた机、古い本の並ぶ本棚、メモの並ぶ冷蔵庫、ベッド、でこぼこの壁、壁に貼ったエレファント、グランドでアメフトをする少年、走る去る少女、ジャンプする犬、食道で笑いさざめる生徒たち、 幾つものありきたりの光景が美しく広がる. 不安と苛立ちと無力感の裏側には実はいつも美しさが永遠に広がっているのだ. それがこの映画の力強さの源だ. そして誰もが人を殺せる.(ライフルであれ、カッターであれ.少年であれ少女であれ) だがその時、ほんのわずかなずらしが、人を殺す人に何よりも美しいものを見せ、その時その人を誰よりも美しくし、幸せな人にしてくれるのだ. そのずらし、ほんのわずかなタイミングのずれ、一瞬の呼吸の深さ浅さが、酒鬼薔薇聖斗や佐世保の小6少女を誰よりも美しく幸せな少年少女にしていたはずだったのだ. 苦しい. あまりに苦しくなる. これを書きながら息が詰まる. 特に佐世保の少女だ. 12歳でなんでそんな仕打ちを受けなければならなかったのか. 不安と苛立ちと無力感と空虚の裏側には、何よりも美しくのどかで、誰も気にすることなく心から笑い涙できる永遠の時が隠されていたはずなのだ. 話はアメリカコロンバインのことではない. ここ、日本でのほうがはるかに残酷で哀しい小さな毎日が、意味もなくあちらこちらに転がっているのだ。 そして誰もそれを知らない. のた打ち回っている小さな魂が、今もあちこちにいる. 誰も知らない. 2005.5.31 |