誰も知らない 健気なのだ. 切なく、哀しく、息苦しい. そして映像は美しい. 母親がノブを回すのより一瞬早くノブを回し母親を迎え入れようとドアの内側で息を殺し、兄と目配せする長女。 母親に塗ってもらった初めてのマニュキア. 床にこぼししみになった痕を、いとおしげに指でなぞる. 公園の遊具の上に立ち姉と背比べをする妹がその遊具から飛び降り駆け去っていった直後、その遊具についたわずかな泥をさっと手で払う細やかさ. 長女は一家の洗濯係を忠実にこなす. 綿毛を追いかける子供たち. 下の二人、茂とゆきはあまりにもか弱く、奔放で、脆く、しなやかだ. 酔って帰り子供たちの父親たちの思い出を語る母親を静かにお茶を入れながら見守る長男. カップそばを食べる妹たちにうまいかと聞き、微笑む妹たちに満足気にうなずく. 彼は3人の命を預かる. コンビニの店員の「警察かどこかに相談したら?」という言葉に「4人で一緒に住めなくなる」と拒否する. 12歳の子供がだ. 筆跡がばれないようにコンビニの店員に代筆を頼み、母親からだと嘘をついてお年玉を全員に渡す. ゲームや野球で見せる無邪気な笑顔. 「私は幸せになったらいけないの?」 そう言って次々と男を変え、最後は子供たちを捨てた母親さえも、子供たちにはどこまでも慕われている. 演出も子供たちの自然な表情を撮ろうとしている. 茂の天衣無縫な笑顔と叫び声. ゆきの突き抜けた無垢. 京子の鬱屈した話し声、押し殺した表情.妹への優しいまなざし. 明の母親と九九の勉強の時の笑顔. 学校に行きたいといった時、母親が学校に行かなくても偉くなった人はいると言い、しばらくしてアントニオ猪木という言葉に、どう対応していいかわからず苦笑してしまう。 水も電気も電話もガスも止められ、公園の水道で洗濯をし、ペットボトルに水を入れ持ち帰る. そんな時4人で公園の遊具に登り、ぐるぐると大声を上げ、回る. 枯れた花が、やがて花をつける. 桜は満開になり、緑が木々に茂る. 空の青さが深くなる. 美しい光景だ. だがだからこそ違和感が残る. この話は冒頭のシーンにあったように、現実の話がもとにある. 1988年に起きた巣鴨子供置き去り事件だ. この事件では下の妹は、長男の友だちにいじめ殺されている。 他の二人も大人たちに発見された時は極度の栄養不良に陥っていた. 決して子供だけで暮らす1年近くの全ての時間が彼らにとって地獄であったとは思わない. またその地獄を描かないことで彼らの地獄を想像させようという意志が作り手にあったのだとも思う. だがこの美しく、哀しすぎる映画を見終わった後、その感傷が、今もこの日本のどこかに確実に存在する多くの、精神的にも実際的にも親のいない子供たちへの思いを、涙とともに消していく恐れがあるのだ. 抑制の効いた映画だとは思う. 悲惨な現実への叫び声が確かに聞こえる. 死んだゆりは引っ越してきた時に入ってきたケースには入らず、一回り大きなトランクにしか体を入れることはできなかった. 「ゆり、大きくなってたんだ.」 長女が、言う. だが抑制の中に何かが過剰になってしまった. それは何なのだろう. To be continued 2005.6.7 |