CURE キュア                         2003.4.27

 

Cure.

 

「治療」だ.

 

誰が誰に治療を行ったのか?

 

「間宮」が「世界」を治療したのだ.

 

どのように?

 

「催眠」を使い、他者の精神のバランスを崩しているものを浮かび上がらせ、それを自覚、実行させ、解消する.その時「治療」は終わり、彼は「呪縛」から解き放たれ現在という「生の時間」と向き合う事ができる.

「呪縛」とは過去であり、文化、文明、習慣、常識であり、「生の時間」とは、今、ここである.

 

間宮は過去を持たない.

だから彼が評価する人間は、今ここで何を望み、何をし、何をしようとしているのかだけを意識している人間だ.

 

間宮が高部とともに、警察のお偉方との面接の際に、本部長だと自己紹介を終えた本部長に次のように言う場面がある.

 

「本部長の藤原、あんたは誰だ?」

 

これは的確な質問だ.

我々は所属する学校や会社や地位で自分自身を確認する.肩書きを見る他人の目に安心する.

だが真に大切な事は、肩書きをはずれた時に自分が誰であるかを言えるかどうかだ.

肩書きのない時代を青春という.

だから青春は混乱し、弾け、輝き、落ち、その明滅を繰り返す.

社会に出、それぞれの場所で小さな居場所ができた時、自分が誰であるかを忘れる.そしてその時人は死ぬ.

悪い事ではない.自動人形となり人のため、世のために生きていることもあるだろう.だが本人に命の輝きはない.

 

間宮は自分が誰であるかを答えられなかった.

その答を得る為に大学で心理学を学び、メスナーを選んだ.

メスメリスムとは、

 

 ドイツの医学者メスマー Mesmer(1734−1815)の理論又はそれに基づく治療法。その理論は、宇宙には眼に見えない神秘的な流体、即ち「動物磁気」が普く充満し、その流体の媒介によって生体相互も影響しあうというもの。人体内の動物磁気の配分の乱れが病気の原因であるとし、彼は患者に手をかざすなどして自分の動物磁気を送り込んで治療した。このメスメリスムは1780年代のパリで大流行した。そして、その治療は大掛かりな装置を使った集団的宗教儀式の様なものだったとされる。(抜粋・参照『岩波哲学思想事典』)

 

間宮の論文の内容はわからないが、「動物磁気」という言葉は原稿にあった.

おそらく彼は肉親や友人、世間や社会、そして誰よりも自分自身との折り合いをつける事ができないまま苦悶の時を過ごし、自分と他人と社会への敵意と憎悪のみを育て、拡大し、精神のバランスをどこにも求める事ができなくなっていたのだろう.

その時メスナーの「動物磁気」を知る.人や生物を正しく生かしているのは社会の常識や法ではなく、また人間の作り上げた文明や文化でもない.人間を正しく生かしているのは「動物磁気」である.と結論づけ、正しく生きているのは自分自身だけであり、他人や世界は何の自覚もなく自縄自縛の中にゴロンと転がっているだけの存在であると考えたのだろう.

 

だからそのことを気付かせてやらなければならない.

自分自身の正しい磁気の流れに気付かせてやらなければならない.

自縄自縛を解いてやらなければ、と考える.

 

間宮は無意識に押しやった、強力な自縛、すなわち憎悪、を解放する.

憎悪が解放された時、人は本来の姿に戻れる.

 

間宮は「催眠治療」を次々に行っていく.

 

だが間宮の治療「CUREキュア」はおそらくは善意のものだったのだ.

たまたま今の日本の人間たちの、本来の明るく清々しく、どこまでも伸びやかな邪気のない心を汚しているのが、憎悪、悪意、殺意だったのだ.

彼の催眠治療の結果、殺人が起きることが不幸だったのだ.

 

 

だが、「今、ここ」で、「今、ここ」を、生きる事ができるだろうか.

これほど追い詰められ、混乱し、無力と笑うしかない絶望と、逆説にみちたこの世界で、今ここに生きる事ができるだろうか.

 

もし生きるとしたら、間宮のように記憶を失った殺人者となるか、洗濯機を鳴らす事で汚濁した世界を拒否する高部の妻のようになるしかない.

 

きれいにしたい.

だがきれいにするものはない.

 

空っぽの洗濯機を回す哀しい行為.

だがそれを見る高部は今、現在に生きることの困難と不可能を知っている.

だから彼は間宮の「催眠治療」から免れる事ができたのだ.

 

そしてもう一人.

間宮の「催眠治療」からしかし、免れる事のできなかった佐久間.

彼は自分の手を手錠にかけ、自分を殺す事で殺人を拒否した.

その意志の力と愛の力に最大限の賞賛を送りたい.

 

最も間宮に接近したのは佐久間だったのだろう.

彼の殺意の対象はおそらく高部だ.

対象を失った殺意のパワーが自分に及ぶ事を理解した上で、彼は自分の手に手錠をかけ高部を殺す事ができないようにしたのだ.

 

 

 

乾いた赤茶けたシーン.

立ちふさがる壁.

力なく登場人物たちはその壁を叩く.

 

これまでの日本映画にはない、押し進められる論理の力.

だがその論理に救いはない.

 

ではその論理ごと救うものは何?

それを見たい.

 

 

 

それにしても交番の巡査が自分の本音に促されつつ、しかしそれを拒否しつつ、しかしそれでも拒否できず、その事の不思議を感じつつ、しかもそれが当然だと納得もしつつ、同僚を射殺するシーンはあまりにも見事だった.

人が生きていくことの不思議を完璧に表現していたと思う.

でんでんだっけ?

すごいよな〜.すごい、すごい.ホントにすごい.