バトルロワイアル(映画) これは子供に裏切られた大人の愛憎劇。 キタノがこの映画の主人公だ。 「これからちょっと殺し合いを始めてもらいまぁ〜す。」 語尾の「まぁ〜す」にキタノの子供達に対する愛憎の深さを隠そうとする、意志の震えが感じられる。 そこには北野武の映画にも、またこの時代を生きる人々にも共通する、ある感情がひくひくと痙攣しながら横たわっている。 それは愛する者を憎むということだ。 愛することができるならばいい。 だが愛する力の無いものが愛を感じてしまった時、その愛は自分を破壊する方向にしか働かない。愛は負担と不安にしか感じられなくなる。 愛せないと感じた時、愛は自分自身の生きる価値や意味を否定する判定力しか持たない。あってほしくはないもの、無い方がいいもの、あってはならないものとなるのだ。 キタノは担任としてクラスの子供たちを何とかしようと思った。 そこでキタノは子供たちに近づき、力になろうとした。 だが子供たちから裏切られた。 教壇にうなだれ座るキタノ。 子供たちの中の愛せる力のある中川典子だけが彼の支えとなる。 だがキタノに愛する力はない。 彼に愛を感じさせた子供たちと中川は、キタノを壊す。 それは生きていく上では認められない。 人は悲しいことに生き続けていかなければならないのだ。 そして愛するものは生存の敵となる。 だがその敵を愛している。 残されたものはキタノの言う通り、無理心中しかない。 彼は死んでいった子供たちの絵を書く。 死んだ子供も絵の中に残る。 無理心中。 愛せなかった者が愛する者を愛する為の最後の手段。 典子が相馬光子に殺されそうになった時、彼は助けに行く。 雨の中、傘を典子に差し出す。 愛する力のある典子は夢にキタノの心を見る。 キタノは撃たれる事で無理心中を回避し「愛」を最後に行う。 銃弾を体中に浴びた後も彼は娘の電話に反応する。 「愛」を再び行う為にだ。 愛の力は人を超人にする。 「人の事を嫌いになるってのは、それなりの覚悟をしろってことだ。」 覚悟とは自分に愛する力のないことを自覚することだ。 そして愛することが可能なのは、その自覚の後だ。 愛することが無条件にできる者は聖者だ。 我々は愛することができないという自覚の後、長い苦しみを経た後に、そのかけらを手にすることしかできない。だがそれだけでも、そのかけらだけでも、人は幸せになることができる。 その可能性を娘に託そうとキタノはする。だが娘は無責任としか言わない。 キタノは娘を撃つ。キタノは娘と無理心中をする。 「最後の1枚。クッキーうまかったな。」 死んだ子供たちの絵がアップになる。 子供を愛せなかった大人の子供への愛憎劇。 原作にはない。 それを深作欣二が加えた。 大人の物語だ。 愛のない大人の物語だ。 愛のない大人が作った地獄の物語だ。 愛のない大人たちが作った子供の地獄の物語だ。 |