バネ式 吉田照美 せんだみつお なべやかん 伊藤四郎 ああ、なるほど. わかるわかる. そしてうまい. 「ねじ式」の世界を今に置き換えている. 無意識の正しく歪んだ力. それは電波の女医を探すことに固執する主人公をどこまでも支え、主人公を混乱させるが、それは彼にとって必要な力であり、彼を正しく導いていく神の言葉なのだ. 意識世界の奇妙さ. それはセリフの繰り返しに表れる. 言葉とは意味だ. だが意味とは実は無意味だ.それは普段は隠されている. それを言っちゃあ、お終いよ、だからだが、社会は言葉の意味を信じ、そのことを暗黙の了解とし成り立っている.その欺瞞を浮き立たせる繰り返しのセリフ. 「ねじ式」であったその二つが「バネ式」でも十分に表現されている. だが問題はなぜ今それをやるかということだ. ラジオの人である吉田照美が何故2002年という時期に、わざわざ「ねじ式」を復活させる必要があったのか. 淡々とした時間. 1時間ちょっとの時間だ. そこに何かを訴えたいという熱い情熱が感じられるわけでもない. 淡々とした主人公を演じる役者. 癒し系そのままの乙葉. なぎらも伊藤四郎もせんだみつおもそのままだ. ここには何か目立ったメッセージがあるわけではない. この大変な時期であるこの時代に、主張すべき何もないのだ. だがおそらくここで感じ取らなければならないのは、つげ義春が「ねじ式」で表現した「無意識の正しく歪んだ力」なのだろう. 無意識とは神だ. と考えよう. だが歪んだ人間の歪んだ意識で見た無意識は、絶えず検証が必要とされる. その検証の時間をこの「バネ式」で吉田照美は表現したかったのではないだろうか. だとすればこのゆったりとした時間を、ツタヤさんの貸しビデオにまで置くことのできた力量は評価しなければならないと思う. こんな映画が町で借りられるのだ. それはひそかに今この時代に必要とされているからであり、そのことに僕はちょっと大きな安堵を覚えるのだ. ぼくたちはぼくたちの歪んだ意識を絶えず歪んでいると意識し続けなければならない. そのために必要な映画だと思う. 2003.4.20 |