アンテナ 田口ランディ                     2003.6.2

◎「アンテナ」とは何だろう.

小説の終盤にこうある.

 

主人公の弟,祐弥が言う.

「アンテナは常に何かを受信している.だけどそれを意識が遮断しているんだ.意識が無防備になった時に,頭の中に無数の映像がフラッシュバックみたいに浮かぶ.意識は見て見ぬふりしている.だけどぼくらは無数の映像を見ている.めくるめくような風景や人や何かの細部や……」

 

「ラジオみたいな感じなんだ.いろんな波長があって,だんだんと自分でチューニングする事を覚えていく.そうすると,波長によって情報が異なる.」

 

祐弥が見る無数の映像とは何だろう.

考えてみたい.

 

◎人は生きる.

生まれてから死ぬまで生きる.

その間どれほどの思いを思うだろう.

どれほどの悔しさや悲しみ,寂しさ,苛立ち,怒りや喜びを発するだろう.

そのエネルギーの大きさを思ったことはないか.

 

ここに石がある.

それを動かす.

手でつついたり,弾いたり,持って投げたりして,動かす.

石は動く.

それは目に見える動きだ.

 

だが例えば言えなかった思いに涙する時,その思いのパワーは石を動かすか.

動かしはしない.

だが指が石を弾く力と比べどうだろう,小さいものだろうか.

小さくはない.

むしろ石を動かす力の何十倍,何百倍,何千倍の力がそこに込められていたはずだ.

だがその力は目には見えない.

では,無いのか.

ある.

目に見えない力にこそ力はある.

だからそれらの力は残る.残らざるを得ない.消えることができないのだ.

思いは振動となり揺れ,振動は振動を呼び,消えない.

妄執.執念.怨念.

いや,そのような特別な思いでなくてもいい,日々思う,思い.何気ない思い.

それらは何気ないが故に力を持ち,目に見えない場所に残る.残っているに違いない.いや,残らざるを得ないのだ.

なぜならそれは人の思いなのだから.生きている人の思いなのだから.生きて通じ合う事のできない人の思いなのだから.

「祐弥」はそうした過去存在し今存在している人々の記憶と思いを受信する.

 

◎過渡期だ.

今は人類の過渡期だ.

やがて人は人と心と心で通じ合える.孤独はなくなる.苦しみも悲しみも痛みも寂しさも何も言わなくてもわかり合える.

それが人類の最終形態だ.

だが過渡期では人の思いや記憶は「アンテナ」を持った者にはランダムに鉄砲水のように流れ込んでくる.分かり合える力にはならない.コントロールが効かない.混乱を生む.そしてその混乱が妄想を生む.

本来なら通じ合える力が,妄想を生んでしまう.

「真利江」は生きたいという思いをこの世に残した.

それを「祐弥」が受信する.それを受けた「僕」が「真利江」という妄想を作り出す.「真利江」が家族の中で実在するようになる.

 

◎新しく人類が手に入れた力もその最初はどのように使っていいのかがわからない.

人の思いを受け取る力.

それは人の心を読み取る力であり,それを皆が持てば孤独はなくなり,誤解はなくなり,人との関係が生む辛さの多くは消えてなくなる.

それはやはり一種の超能力だ.

だから誰もが自然に今すぐその力を得る事はできない.

「祐弥」は精神科に通い,「僕」も安心を得るためにはナイフで十字に自分の体を切り刻まなければならない.代償を払わなければならないのだ.

前作「コンセント」でも主人公は真夜中公園のジャングルジムに攀じ登り,服を脱ぎ捨て,街に向かい大声で叫び気を失わなければならなかった.

 

人の心を,人々の心を受け取るためには,明晰に狂う力が必要なのだ.

明確な価値基準のないまま,自分の感覚と感情を全開にする勇気.

それは手術の方法もわからぬまま,自分の腹にメスを突き立て裂いていける勇気と同じだ.もはや勇気とはいえない.

人は慣れ親しんだ習慣や常識や他人と共有していると思っている情報の中でのみ,安心して自分の感覚と感情を解放させる.

それは習慣と常識と共通の情報の中での解放だから,本当の解放ではない.枠の中での解放だ.枠に従った,枠による解放.

もっと言えば洗脳された後の解放だ.しかしだからこそ人は安心して自己を解放できる.嘘と薄々わかっていてもだ.それしかないからだ.

 

「アンテナ」をもち受信するためにはその枠の外に出なくてはならない.習慣と常識と共通の情報を捨て,たった一人で原初の5感と感情を持って,名前の剥ぎ取られた世界と直接対面しなければならない.

初めての人類となって生まれた瞬間の世界と対峙するのだ.

だから人の思いや記憶を受信する事ができる.

 

◎前作「コンセント」でその力を得,男たちの妄想をセックスを通じて解放させる事を選んだ『私』は,「アンテナ」ではSMの女王「ナオミ」に転生している.

注目すべき事は,「アンテナ」を立て,ナオミのように自在に世界と感応,交感できる力を持ったとしても,それが一方通行であったならば,つまり他者の癒しとしてしか自分が機能していなければ,それは自滅していくしかないという事だ.男たちはマイナスから0に戻り,しかし自分はゆっくりとマイナスの数直線を進んでいく.

「ナオミ」が「僕」とのセックスで受胎した子供は人間という形をとることができず消えていった.

「ナオミ」が引き受けた男たちの妄想が体内に蓄積され,浄化される前に彼女の子供を食い尽くしてしまったのだ.

一種の超能力を持った者は単独でいる限り広がらない.

彼はそうでない者に食われていく.

(今ふと思ったが,田口ランディは好んで超能力者と呼ばれる人たちと交流を持つ.対談をしたり共に聖地巡りをしている.もしかしたらそうした力を持った人々を絶やすまいと思ってのことかもしれない.かもしれないだ.)

3部作の最後「モザイク」では,主人公が,自分と同じような超能力を持っている少年を時々目にすることがあると言う.「時々渋谷の歩道橋で見るんだ.彼はそこから街を見る.一所に焦点を合わさずに,全体を一度に見る訓練をしているみたいだ.そんな連中が増えれば面白くなる.」

 

新しい力は関係の力だ.一人が持っていても意味はない.

広がっていかなければならない.人の心を感受できる力,人の記憶と感応できる力.それはそれだけで終わる力ではない.心と記憶を知ることで,人の思いの流れを知ることができる.あるべき人の未来を思い描ける.憎しみの連鎖を立つことができる.それが新しい力の意味であり目的だ.

そしてそれが人類を進化させる.

 

原初の目で原初の世界を見る.

だがそんな力を持った者はまだ生まれたばかりでその力をコントロールできないし,孤独のままに地を這うばかりだ.

決してその力を世界に向けて発するところまではいっていない.

むしろその力を持ったがために生まれたマイナスの力,自らが作り上げた妄想をまず浄化させる事から始めなくてはならない.

「真利江」だ.

 

「僕」が冥界に降りていき実体化した「真利江」と対決するシーンは,精緻で動きに満ちた豊かなイメージの迫力あるシーンではあるが,ホラー映画のパターンに似てしまっている.そして思うのだが,人が思う無意識の世界,善と悪,明るさと暗さ,巨大と極小,混沌と調和,憎しみと愛など反対のものが同時に入り混じり共存する世界が,なぜ人の表現の中で似てしまうのか.それはパターン化してしまうほどにすべての人が見る意識化の世界は共通のものなのか,それともそれさえも人類の習慣と常識と共有する情報が作る枠組みの中でその枠組みが作るイメージから逃げ出せないのか.

そのことを最後の対決シーンでは考えさせられた.

 

◎新しい力.

初めて見る目で,初めての物を見る.

 

だがぼくらはもう木を見ることができない.

だがぼくらをもうイスを見ることができない.

ぼくらはもう鳥を見ることができない.

ぼくらはもう両親を見ることができない.

ぼくらはもう友だちや子供や恋人を見ることができない.

見てしまったからだ.

見て名付けてしまったからだ.

 

だがもう一度見ることから始めなければならない.あまりにも困難な作業だがそこからしか始める所はないのだ.

コンセントをつなぎアンテナを立てる.

受信だ.コントロールされた受信.

だが次に大事なこと,受信を受信とするもの,発信.

どのように?

そして何を?

それが田口ランディの次の仕事だ.