『あらゆる人が芸術家である』とは、「何でも有り」ではない。



ボイスは、『あらゆる人が芸術家である』と言った。
この言葉を”芸術とは何でも有りだ”と言っていると思う人は多いのではないか。
だがこの二つの考えは全く逆の事を言っている。

「何でも有り」とは、芸術が何であるかを定義しない事だ。

それに対して、『あらゆる人が芸術家である』とは、
それまでの芸術概念を拡張して”再”定義する事だ。

つまりこの二つの言葉はまったく逆の事を言っている事になる。

日本人は定義する事を嫌う傾向に有る。
確かに「何でも有り」の方が住み心地がよいと思っている人は、いっぱいいると思う。

だが芸術はボランティア活動ではない。(と私は考える)

ヨーロッパにくらべて、日本の芸術家の社会的地位はとても低い。
その原因の一つは、芸術を明確に定義してこなかった事にあると思う。

普通、人は「なんだか解らないもの」にたくさんのお金を出さない。


ただ、「何でも有り」の状況に可能性がないとは思わない。
その中から天才が生まれてくる事はあるだろう。
だが、その事によって文化が発展する事はない。
文化が発展するためには、明解な定義が必要だ。

社会的地位が有ると言う事は、解りやすい言葉で言うなら収入が有ると言う事だ。
お金とは人間の”信用”を物質化したものだ。
お金をもらえると言う事は、それだけ社会的な信用が発生していると言う事だ。
(もちろん様々な矛盾を孕んでいる可能性はあるが)


優れた芸術家は、作品を作るだけではない。”芸術”をつくり出している。
ボイスは、『あらゆる人が芸術家である』と言う言葉によって、
あたらしい”芸術家の社会的意味”をつくり出した。



いまモダニズムが話題になっているそうだ。
明確な芸術の定義をしてこなかった日本人にとっては、必然とさえ言える。
だがモダニズムに終わってしまってはいけない。

あくまで日本(あるいは世界)が目指すべき所は、『あらゆる人が芸術家である』所だ。

1998年5月25日