社会から認められなければ芸術ではない、か?


わりとこう思っている人は多いのではないか。
“社会から認められなければ芸術ではない”

ネットワークでも、シンポジウムでも、知り合いのちょっとした発言の中でも、 こういった考えを述べる人が多い。

最近呼んだ本の中にこう言った内容のものがあった。

 ヘーゲルの言うような人間の社会的な本質(=止揚された人倫)とは、だから、生きる上で人間はどうしても他人との間で相互に相手を了解し合うような関係を必要としているということを意味している、と考えればいい。
 ところが後に見るが、この見方は知らず知らずのうちに、社会的な役割関係が人間存在の意味であるという見方にズレてゆき、さらには、人間の価値は彼が社会的に何ものであるかによって決まる、という転倒した考えに陥ってゆくのである。
すぐにわかるように、この考え方は現在のわたしたちの社会でも強い一般性を持った見方になっている。 しかし重要なのは、この“転倒”は、単に考え方の誤りによって生じたのではなく、社会の構成がもたらしている必然的な転倒に他ならないという点なのである。
            竹田青嗣『現代思想の冒険』 130p〜131pより ちくま学芸文庫

上の内容の中の“人間”を“芸術”に置き換えてみればいい。

芸術は他者の存在を必要としている。
作品を作りつづける事はとてもたいへんな作業だからだ。
孤独であるし、創作のエネルギーはいつ尽きるともわからない恐怖がある。
その恐怖に打ち勝つ最良の方法は他人から評価されることだ。
人間は他者からの評価を栄養源としているところがあるように思う。
だから評価を受けるように創造して行こうとしてしまう。

ただ、やはり評価されるように作る事は頭の良い人でない限りは、やめた方が良い。
芸術は、一つの単純化されたモデルに向かって、自己を(その肉体をもって)昇華していく事、だと思う。
そして単純化されたモデル(コンセプト)から社会(一人以上の他者)に向かって投影していく、それが芸術の守っている基本的なスタイルだ。
そのなかで大事な事は常に、自分(肉体)がどう思っているのか、だ。

社会はつねに序列(差異?)を作る、それは人間が“言葉の動物”である以上、仕方のない事だ。
ただ芸術は言葉の帝国を突き破る可能性を持っていると、僕は信じている。

1998年2月19日