『限界芸術』について


鶴見俊輔の『限界芸術論』を読んだ。
それによると、芸術には三つの領域があるという。

一つは『純粋芸術(Pure Art)』というもの。
専門的芸術家がいて、それぞれの専門種目の作品の系列に対して親しみを持つ専門的享受者をもつ。
絵画、彫刻、文学などがそれに当たる。

一つは『大衆芸術(Popular Art)』というもの。
専門的芸術家が作りはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者として大衆をもつ。(代表的なのは小室哲哉か?)

一つは『限界芸術(Marginal Art)』というもの。
上の二つよりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を言う。
非専門的芸術家によって作られ、非専門的享受者をもつ。
『限界芸術』の代表的芸術家としてあげられるのは、宮沢賢治そしてヨーゼフ・ボイスである。

プロとしての道を通らなかった人のする芸術はすべて、『限界芸術』に含まれる。
年賀状やカラオケ、家族写真や日記などがそうだ。
(ホームページなども限界芸術に含まれる)

『限界芸術』の歴史は長く、基本的には発展していないと『限界芸術論』は言う。
アルタミラの壁画などがその最初の姿であり、芸術の二つの形『大衆芸術』と『純粋芸術』はここから生まれた。
美術の歴史とは基本的に『純粋芸術』の歴史である。『大衆芸術』や『限界芸術』はこのなかに含まれない。


『限界芸術』は芸術の最も基本的な形であると同時に、人間という存在と直接に関わっている領域であるともいえる。人間は元々居る世界から”脱出”すること望み続ける存在だ。
それは空間的な脱出と、時間的な脱出に分けられる。新しい土地に向かって行くこと、新しい状況に変えて行くことではないかと想う。
現在が悲観的であるのは、そのどちらに対しても新しいイメージがわかなくなっているからだ。
(だが一方で、日本人はもともと、そのどちらのイメージも持たずに生きることの出来る民族だが)

イメージが共有される様になり、イメージに対して自由でなくなることは、人間を不可視の鎖につなぐ結果になっている。
今求められているのは、狭いイメージから脱出することなのではないだろうか?
もしかするとイメージそのものからも。

中心に向かうことと限界に向かうことは等しいことだ。
芸術の中心は、”芸術の領域”には常に無い。
二人の”限界芸術”家は芸術の源に帰って行った。

 参考文献:「限界芸術論」 鶴見俊輔著 勁草書房

1997年9月4日