ヨーゼフ・ボイスの言葉 3

Joseph Beuys

ヨーゼフ・ボイスは、科学と芸術をわける頭を持つ事を、大切にしていた。

生徒が自由な創作に行き詰まった時、ボイスは生徒に裸婦を描かせた。
そしてこういった。
『デッサンをする時はダビンチのように描け、厳密に測定するように描け』と。
プロポーションの狂い、角度の狂いに関しては、とても恐ろしい先生だったと、ボイスの弟子ヨハネス・シュトゥトゲン(Johannes Stuettgen)さんは言っていた。

そしてこう言ったそうだ。
『いいかデッサンは科学なんだ、分析なんだ、自由や創造とはまったく対局にある事なんだよ』と、
そして生徒をまた自由な創作に戻した。

ボイスは常に芸術としての思考と、芸術について考える事を分けろと言っていたそうだ。そして分析的能力をつける事を生徒に課した。

最近これと似た話をテレビの中で日系人の指揮者、ケント・ナガノが言っていた。
筑紫徹也との対談の中で、
『あなたはが大学で数学を勉強した事は、なにかあなたの芸術に役立っていますか?』という問いの中で、ケント・ナガノはこう応えた。
『自分のしている仕事(芸術)とは何かを知るために役立っている』と。




芸術はとても難しい仕事だ。
自分の主観の問題を、普遍的な美につなげていかなくてはならないからだ。
そんな仕事に何の意味があるのか?
べつにそれがないからと言って困る事はない。
生命の危機に出会っている人は、芸術の事など頭に浮かばないだろう。

一人の時はそうなのだ。
だが人間は社会に生きている。
他人と関わる事を回避する事はできない。
自我は幻想だと言う人がいる。
たぶんそれはその通りなのだろう。
だが自我が幻想だからと言って、自我なしで生きる事のできる人間はいない。

芸術とは恐らく他人と関わる事、そのものなのだろうと思う。
(『優れた芸術は常に社会的だった』)
科学の仕事は、この自我(あるいは憶測)をどれだけ捨てられるかだと思う。
だとするならば、芸術と言う仕事は、自我を社会の中でどれだけ優れたものとして昇華できるか、と言う事だと思う。
(いや、あいまいな言い方か。やはり科学の対局にあるものという言い方が間違いがなさそうだ。)
人間が社会的な動物である以上、すべての人は芸術家だ。

人は優れた芸術にであったとき、感動し、それを愛する動物だ。


1998年3月28日